信祥」のおしゃべりコーナー (その7)

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琵琶湖周遊の旅

大東亜戦争

西郷庁憲徳政碑除幕式に参加して

バルト海5か国クルーズの旅

詩吟の楽しみ

国旗 日の丸

   琵琶湖周遊の旅 
       

   令和元年5月1日を挟んで10連休という祝祭日に琵琶湖周遊の旅に恵まれました。
「月月火水木金金」と土日を返上して仕事に励めと鍛えられて育った爺児医には今昔の感がありました。
もっと若ければ外国旅行をしたかも知れませんが、84歳の年齢を配慮して、家族4人そろって、琵琶湖周遊の旅に出掛けました。
琵琶湖は滋賀県にあり、面積670.4 キロ平方メートル、周囲235.2キロメートル、貯水量275億立法メートルで日本最大の湖です。 
15名の団体旅行で、ベテランガイドにも恵まれて、行く先々で、その土地柄の特徴や著名出身者の紹介など次々に語って下さり、
楽しみながらの良い旅と歴史の勉強にもなりました。 近江八幡は自然の景色も良いのですが、織田信長を中心とする戦国時代の歴史物語が主でありました。 混乱が続いた戦国時代が、徳川家康の江戸幕府開城で統治され、封建社会が成立しました。更に1868年、明治維新により封建社会は崩壊し、 四民(士農工商)平等の日本国になりました。
しかし世界に目を向けると植民地政策が横行し人種差別の強い時代でありました。 日本は人種差別や不平等貿易に反対し、大東亜共栄圏構想を掲げ大東亜戦争を仕掛けました。
はじめは優勢でしたが長期戦となり敗戦に到りました。その後は民主主義が定着し、74年も平和国家が続いています。
この平和が今後も長く長く続くことを願って居ます。
宿泊は湖北の長浜で平成最後の一夜と令和最初の一夜を過ごしました(写真)。
二日目は三方五胡レインボーラインを巡り、山頂公園や瓜割の滝、天橋立傘松公園を散策しました。
天橋立は日本三景(松島、厳島)の一つで、天候にも恵まれ、傘松公園から観る天橋立は壮大な大自然の絶景でありました。
股覗きもしましたが、人目を気にせず妙齢の美女も堂々と覗いていました。
安土城は戦国時代、織田信長公が1576年、丹羽長秀に命じ、約3年の歳月をかけて完成した城で、天守からは家臣であった 明智光秀の坂本城や豊臣秀吉の長浜城が見渡せたと言われています。
また京都まで移動するための効率も考えてこの地を選んだとも言われています。
三日目の竹生島は周囲2キロの小さな島ですが国宝の宝巌寺唐門や船廊下等釘を使わない宮大工の技法を垣間見る事が出来ました。
飛行機や電車に揺られて行く旅は運ばれる荷物と感ずることもありますが、少人数でバスガイドの説明を聞きながらの旅は楽しいでした。
地方には夫々の歴史や風土がありますが、それらを確りと勉強し、我が物にして、面白可笑しく御客を接待するガイドさんに感心しました。                    

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   大東亜戦争 
        

    戦後70年経った今、「大東亜戦争」の呼称を知っている人は極めて少なくなってしまった。
昭和16年12月8日早朝 ラジオ放送は全国一斉に伝えた。
「軍管区情報 臨時ニュースを申し上げます、我が大日本帝国陸海空軍は本日未明、太平洋上において、
鬼畜米英に対し戦闘状態に出でり・・・ 」
  当時 私は6歳の幼稚園児であったが、事の重大さは理解できた。国民学校入学の頃は「勝った 勝った」のニュースが多く、
昭和17年2月、シンガポールを占領して、「昭南島」と命名した時は、提灯行列まで行った記憶がある。
しかし昭和18年4月 連合艦隊司令長官山本五十六大将の戦死後は、次第に雲行きは悪くなり、
昭和20年8月15日 遂に無条件降伏と言う形でポツダム宣言を受諾し、大東亜戦争は終結した。
日本の占領軍(GHQ)は、この戦争を「大東亜戦争」と呼称することを禁止し、検閲をして太平洋戦争 (または第二次世界大戦)と書き換えさせた。 日本の教科書や公文書もすべて書き換えさせられた。
昭和16年12月10日、日本政府は「今次の対米英戦は、支那事変をも含め「大東亜戦争」と呼称す。
「大東亜戦争」と呼称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を主として大東亜のみに限定するにあらず・・・」 と内閣情報局(現在の官房長官)が発表している。即ち日本政府は「大東亜戦争」と命名して宣戦布告をした。
ここに言う「大東亜新秩序」とは、昭和13年11月に発表された支那事変における日本の目標を示した「東亜新秩序」 ( 日本、中国、満州国の三国が協力して、国際正義の確立、共同防共、新文化の創造、経済統合を実現するために新たに建設する東アジアの国際秩序 ) 
の理念をアジアの全域にまで拡大したものであった。これはさらにアジアの植民地解放と相互の平等互恵を理念とする「大東亜共栄圏」構想に受け継がれ、
今話題のTPP構想と同様な発想で、東アジア地区にヨーロッパに負けない強力なパートナーシップ、即ち大東亜共栄圏を創るとの構想であった。
我が国は、もともと自存自衛のためにやむなく米英との戦争に突入したのだが、当時の日本は戦いの目的を、 「欧米の人種差別、民族差別意識に基づくアジア被植民地体制を打破し、宿願である人種平等、民族平等による新たなアジア国際秩序の構築を目指すもの」と定めた。
この「大東亜戦争」という呼称のもとに、幾百万の日本の青年や植民地解放を目指して立ち上がったアジアの青年達が、共に手を携えて戦ったことは、厳然とした事実なのだ。 そしてその多くが戦場で斃れ、命を散らしたことを思えば、あの戦争は人種差別の無い大東亜共栄圏を築くための戦いであって「大東亜戦争」と呼ぶことが正しいと思う。
戦勝国は「日本が何故経済大国米英を相手に戦争をしなければならなかったのかの経緯は封鎖して、戦争を仕掛けたのは日本であり、日本の軍部や指導者は侵略者であり、 戦争犯罪者である」と決めつけて、弁護の機会も与えず東京裁判は実施された。
「大東亜戦争」の呼称を残すことは、人種差別やアジアの植民地化を継続強化したい欧米列強(白人)にとっては不都合な呼称であったので、日本の教科書や公文書から全て削除するよう指導した。 
     「大東亜戦争」の呼称を知っている80歳台以上の高齢者の数は少なくなる一方、戦争の悲惨さ怖さを嫌と言うほど知っているので「戦争」自体を思い出したくない高齢者が殆どであると思われる。
しかし 戦後70年経った今 欧米列強の植民地であったアジア諸国は独立し、日本は平和国家として、アメリカの核の傘に守られながら経済大国へと発展した。
「大東亜戦争」には負けたが、人種差別や白人による植民地支配は無くなり、昭和23年12月10日 第3回国連総会では「世界人権宣言」として、人種差別の無い人権宣言が、日の目をみることが出来た。 大東亜戦争が無ければ人類の自由平等を掲げた「世界人権宣言」の誕生は遅れ、東南アジア諸国の独立や、黒人のオバマ大統領の誕生も無かったかも知れない。
昭和27年4月11日 日米安全保障条約の発効に伴いGHQは廃止され、昭和27年法律第81号により、「大東亜戦争呼称禁止令」は失効している。
歴史的事実として、「大東亜戦争」の呼称は死語にしないで、復活して欲しいと願う爺児医である。

 

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   西郷庁憲徳政碑除幕式に参加して          

 平成26年5月16日、台湾宜蘭県宜蘭市にて、西郷菊次郎顕彰碑解説の除幕式に参加する機会に恵まれたので、日本と台湾の交流の歴史や思うことを述べさせて頂きます。
 西郷隆盛は明治維新の立役者であり著書も多い。しかしその息子菊次郎については著述も少なく、日本での認知度は低いが、台湾では偉人であり、父西郷隆盛の人生哲学である「敬天愛人」を如実に実践した政治家であった。  明治28年4月14日、下関春帆楼において、伊藤博文と李鴻章との主席交渉により日清戦争は終結した。結果、台湾は日本国の領土となった。
初代台湾総督には海軍大将樺山資紀が任命された。同年5月21日西郷菊次郎には台湾総督府参事官心得を命ずとの辞令が交付された。
当時台湾には、先住民45万人、移住民250万人、合計259万人が住んでいた。二代目台湾総督は桂太郎、三代目は乃木希典、4代目は児玉源太郎であったが、児玉は民政長官に後藤新平を抜擢し、後藤は農業技師として新渡戸稲造を召集した。  西郷菊次郎が台湾で後世に残る仕事をしたのは、宜蘭庁長(県知事) の時代であった。
菊次郎が宜蘭庁長に任命されたのは児玉源太郎が台湾総督に就任する前年の明治30年5月27日であった。
 当時赴任した総督府の役人は、日本の領土になった台湾を日本の法律を以て治めようとしていたが、「これは間違いで、台湾の風習や民意を無視しては住民の本当の理解は得られない」と菊次郎は感じていた。
菊次郎は庁長就任直後より、教育の普及、河川工事、農地の拡大、道路の整備、樟脳(香料、防虫剤、医薬品やセルロイドの原料)産業の発展、農産物の収穫増加に取り組み、先住民の強奪横暴を収めて、住民の生活を安定させ、今流のインフラ政策を実行したのであった。
特に宜蘭川の堤防は1年半の年月をかけて作られ、現在も残っている。
 お蔭で大雨の度に氾濫していた宜蘭川は農業用水となり、学校や病院も建設されて、宜蘭住民からは絶大な信頼を得ていた。
庁長退任後、宜蘭河畔には西郷菊次郎の遺徳を偲び頌徳記念碑が建てられ、現在も遺徳を偲んで拝礼する住民が沢山居られるという。
此の度、鹿児島西ロータリークラブと宜蘭ロータリークラブの姉妹盟約を契機に、『西郷菊次郎の徳政碑』の横に日本語、英語、中国語の三か国語による解説碑を寄贈して除幕式を行った。
式典には宜蘭県知事、宜蘭市長等政財界の有力者数百人と鹿児島西ロータリークラブ会員・家族28名や西郷隆盛の曾孫さんで陶芸家の西郷隆史さんが参加して盛大な除幕式が挙行された。
 大東亜戦争前の日本は、東アジア地区にヨーロッパに負けない大東亜共栄圏(今話題のTPP構想と似たような)を作るために、軍部が中心になり大活躍した。
朝鮮や台湾とは同盟国として強力なパートナーシップを築き、各地でインフラ整備をはじめ、学校を建て教育を充実し、知識を与え、知恵を高める施策を実施した。 
      侵略とか植民地化するのであれば、軍人に採用したり、銃や危険な兵器は与えない筈だが、逆に優秀な人材には陸大や軍事指導者学校にも、日本人と差別なく入学を許可した。
侵略とか植民地化ではなく、味方・仲間更には同胞と認識しての政策であった。
敬天愛人の政策のおかげで、現在でも西郷菊次郎は台湾の人に敬愛されていることを知り誇りに思った。
 今回の台湾訪問で、特に高齢の方々からは親日的な言葉や接待を頂き嬉しい旅となった。
 

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   バルト海周遊の旅          

バルト海5か国クルーズの旅
                 鹿児島発着の日本航空チャーター便で、「北欧5か国のクルーズ旅行」の案内がH交通社からあり、息子と二人で出かけることにした。
近々82歳になる高齢の身体で、長旅について行けるか ヨーロッパはテロ騒ぎもあり、一抹の不安もあったが、6月23日から7月1までの9日間クルーズの旅を無事終了することが出来た。
リーガル・プリンセス号は、現在世界一の豪華客船で、長さ330m、 幅47m、 高さ75m、総トン数14万トン、航海速度22ノット とまさに動くホテルであり、時々船揺れはあったものの船酔いをするほどのことは無かった。エンジンの音も全然聞こえなかったので睡眠妨害も無かった。 乗客定員3560名、乗船職員1500名で、乗下船の際は出入国並みの厳しいチェックが行われておりテロの危険性も無かった。
船内には、飲食店数か所、シヨッピングセンターやカジノ等娯楽センターもあり、スポーツ練習施設では、水泳、日光浴、ゴルフ(打ちっぱなし、パター)、卓球、ランニング、自転車漕ぎ 等など楽しんでいる人も多かった。 グループ毎に分かれて、避難訓練、救急救命訓練は乗客全員に義務付けられて実施した。
第1観光地 デンマーク、コペンハーゲン @ 人魚姫の像 A市庁舎広場と女王の居城 Bアマリエンボー宮殿 第2観光地 ノルウエー、 オスロ  @ 国立博物館 Aフログネル公園 Bノルウエー民族博物館 Cオスロ市庁舎 第3観光地 ドイツ、ヴァルネミユンデ @ シュヴェリーン城 Aオランジュリー広場 第4観光地 エストニア、 タリン @トームベアの丘 Aアレキサンドル・ネフスキー聖堂 B旧市街地 第5観光地 ロシア、サンクトペテルブルク @ エルミタージユ美術館 Aハリストス復活大聖堂 B聖イサク寺院 C宮殿広場 1 白夜の体験
郷里の頴娃町は西は東支那海に囲まれているので、幼少のころは真っ赤な太陽が西の空遠く地平線に静かに沈んで行く夕焼けの景色見る機会が多く、今でも鮮明に覚えている。
オスロでの夜10時30分頃、18階の船上で、幼少期に見た時と同じ太陽が海の彼方の地平線に沈む光景を見た。
直径50センチ位に見える夕日は3メートル沈むのに10分は掛かると思っていたが、オスロでの夕日は3メートル沈むのにたっぷり1時間かかった。
そして夕焼けが長く続く事になった。暗闇に成る暇もなく、2時頃には明るくなり始め、4時頃には御来光が拝めると言う貴重な白夜の体験が出来た。
2 バルト海 若い頃は旅行が好きで、夏休みや冬休みを利用して海外旅行を楽しみました。代診して留守を守って下さった先生方には感謝の気持ちで一杯です。
今までは殆ど自由経済圏の旅であったが、今回はロシアの旧都サンクトぺテルブルクに寄港出来て良い勉強になった。
共産圏国家では建物等の規制は統一されて居て、建物の高さや色彩は決められています。公園などの建造物も国家のものですから保存は立派ですが、観光客には手を焼いている旨です。
しかし外貨を稼ぐためには観光業が一番良いと案内してくれました。
見るべきものは国家規制に外れた、王朝時代の建物や美術品が主でありました。
日露戦争でバルチック艦隊は日本海海戦で敗れましたが、大西洋に出れる唯一の港バルト海からヨーロッパを経由し、 大西洋から日本海に到る長距離航海には経験も無く疲れていたのが敗因だったと説明して居ました。
今 ロシアは日本の北方領土問題に固執し、手放さない理由を垣間見る気がしました。
3. エルミタージュ美術館 訪問先の色々な国で特有の美術品や観光に恵まれましたが、エルミタージュ美術館は案内者にも恵まれて良い観光になりました。
エルミタージュ美術館では、先ず観光客の多いのに吃驚しました。
17世紀、ロマノフ王朝の全盛期に、ロシア第2の都市サンクトペテルブルクに設立され、21世紀の今日に至るまで、世界各地の美術品や工芸品、古美術品の収集を続け、現在では美術品310万点、美術絵画17000点ものコレクションを保有する世界三大美術館(大英博物館、ルーブル美術館)の1つである由です。 造形美術に関心のある方は何日観覧しても見飽きないだろうと感じました。
4. 終わりに 鹿児島発着便であり、鹿児島の方が多く、会食は席の入れ替えもあったが「さめしま先生ですよね」と呼びかけてくれる人も居て、更に県医師会会員T.先生、I.先生ご夫妻ともご一緒出来てクルーズの旅を楽しみました。元気も貰いました。有難うございました。  

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詩吟の楽しみ
                  昭和43年1月、鹿児島市山之口町で、私はA島小児科医院を開業しました。51年経った今も細々と外来丈の診療を続けております。
「仕事が趣味であり、娯楽でもあります」と意気盛んな時代もありました。しかし本職以外に何か趣味と言える勉強もしてみたいと思うことがありました。
昭和60年、近くのMBCビルの一角に「詩吟教室」があり、緒方勉神先生に誘われて、週1回の詩吟教室に通いました。先生は平成3年天国に旅立たれましたが、「止めないで、続けなさい」のお言葉を守り、今も月1回は詩吟教室に通っています。現在の詩吟教室は「鹿児島吟(ぎん)翔会(しょうかい)」で8名の会員が居て、お師匠さんは寺田利則先生で、本職はお坊さんです。 詩吟は日本文化の一翼を担っていることは確かです。
私は社団法人日本吟道学院から・・・・、師範、教授、範師を認許され、吟号は鮫島信(しん)龍(りゅう)となっています。
練習は礼に始まり礼で終わりますが、会の始めに
   渡辺(わたなべ)龍神(りゅうじん)作 「発祥(はっしょう)の詩(し)」を吟ずるのが通例です。
濃(のう)藍(らん)の海水(かいすい)碧空(へきくう)の天(てん) 吟(ぎん)道(どう)の深邃(しんすい)将(まさ)に浩(こう)然(ぜん)
常(じょう)居(こ)其(き)全(ぜん)たり皆(みな)坦(たん)道(どう) 至誠(しせい)の一吟(いちぎん)是(こ)れ止(し)観(かん)
止観: 多くの妄念をおさえとどめて万有の真相を観じさせること。
 大海原(おおうなばら)の水と大空が一つとなった如く、吟詠の道の深さは大きく広く盛んである。だからその時その場において完全であれは、行く先は常に平らかで、まがりくねりの無い道があたえられるものである。そのように真のまごころで吟詠の道をいそしめば、多くの妄念を抑えとどめて、万有の真相を観じ悟ることができる。  「詩歌(しいか)朗吟の第一に心掛けねばならないことは詩歌(しいか)の心をよく読みとって、その心を自分の感情に移すことである。
一篇の詩、一首の歌の中には、作者の全生涯に体験した感激の結論が結ばれている。
 短い語句の中に万感の情を織り込んであるのが詩であり歌である。これを感情の中よりほとばしる吟者の旋律に託して韻誦(いんしょう)するところに朗吟がおこる。だから朗吟は詩歌を立体化して活動的な新しい生命を与えるよう努めなければならない。」と渡辺龍神先生は述べておられます。 朗吟は伴奏が無くても仲間がいなくても、その気になれば風呂場でも寝どこでも、何処でも気の向くままに詠えるのが特徴です。
鹿児島県には現在、20の詩吟教室があり、会員は268名 (日本全国ではおよそ7千人) 居ます。会員の高齢化や人数の減少が悩みの種です。
もしかして「勉強をしたい」と思われる方が居られましたら、ご遠慮なくお知らせください。薩摩狂句や囲碁、カラオケも趣味として楽しんでいます。( 電話 099-224-2525 )

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国旗 日の丸
                             「太陽神」を表す「日の丸」は、日本では古くから紋章として朝廷や武将たちに使用されてきたもので、江戸幕府も御用船の船印として使っていました。
嘉永6年(1853年)12月、島津家28代当主斉彬は、日本の船と外国の船とを区別するために、白地に赤の「日の丸」を日本のすべての船の船印とすることを提案しました。
話し合いは難航しましたが、水戸藩の徳川斉昭が島津斉彬が提案した「日の丸」を強く支持したこともあり、安政元年(1854年)7月11日、幕府は「日の丸」を日本の船の総船印に採用しました。
安政2年(1855年)薩摩が造った日本最初の軍艦「昇平丸」は日本の船であるという印として初めて「日の丸」を掲げました。
明治3年(1870年)には、日本郵船商船規則の中に規定され、以後日本の国旗としての機能を果たすようになりました。(維新ふるさと館)
待ちに待った東京オリンピックの年がやってきました。
第1回オリンピックは1896年ギリシャのアテネで開催されましたが参加したのは14か国で、参加選手は国の代表ではなく、大学やクラブでプレーする個人的参加でありました。
今年(2020年)の第32回、東京オリンピックは205か国、選手12,000人以上の参加が見込まれています。
優勝した選手を称え 国旗を掲げて国歌を斉唱する光景はお馴染みになりましたが、素晴らしい感動の瞬間でもあります。今年は「日の丸」が何回上がるか楽しみにしています。
国旗であるので、自分の国の旗が好きなのは当然です。
しかし、話題を変えて、205か国の旗を順不同に並べ、「国旗としてでは無く、どの旗が一番好きですか? 」 と聞いてみたら如何でしょうか?・・・・。
「白地に赤く 日の丸染めて ああ美くしや 日本の旗は」がT位になると私は信じています。
こんなに素晴らしい旗を国のシンボルとして、国旗として使える様にしてくれた日本の先人達に万雷の拍手を送りたい気持ちです。
  日(ひ)の丸(まる)が 国(くに)ん旗(はた)でな 世界一(せかいいっ) 
   広(ひろ)か宇宙(うちゅう)い 陽(ひ)が登(の)ぼっ居(ちょ)っ
             鮫島(さめしま)爺児医(じじい)
                

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