信祥」のおしゃべりコーナー (その6)

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− 目 次 −
戦後はいつまで続くのでしょうか?

麻しん撲滅を願って(8月4日をはしかの日)と提案します(平成20年8月4日)

ウィリアム・ウィリスとの縁(平成16年9月7日)

在鹿児島頴娃町人会10年を振り返って(平成16年5月19日)

   戦後はいつまで続くのでしょうか? 
        さめしま小児科院長 鮫島信一

  私は戦争は嫌いだし、理不尽な人殺しはあってはならないと心の底から思っている一人です。平和慣れした日本国民で戦争を肯定する人は、今  皆無であると信じています。しかし武力によって主張を貫こうとする戦争を決断するには、そこまでゆかねばならなかった理由があるはずです。
 大東亜戦争は、日本だけが戦ったのではなく、ドイツ、イタリアも連盟して、米英連合国と戦いました。真珠湾攻撃は1941年12月8日でありました。 当時日本はソ連とは不可侵条約を締結していました。戦争の発端は資源の無い国への石油、石炭、鉄鉱石等の資源供給制限、輸送用海洋路線の封鎖、 高率な関税等保護主義的な経済活動が強行されたからです。
 当時、日本は日清戦争、日露戦争に勝利し、東アジアの繁栄を目指して富国強兵策を執っていました。イギリスがアフリカ、インド、香港と侵略して植民地化するのに 対抗し、大日本帝国と称して軍部の独走が始まっていました。白人によるアジアの植民地支配を阻止し、アジア人による 大東亜共栄圏をつくるため、朝鮮、満州、台湾を平定し、更に中国へも侵攻していました。国内では大東亜共栄翼賛会を設立し、「欲しがりません、勝つまでは」 を合言葉に大東亜戦争に突入しました。 開戦当初は東南アジア諸島で有利な戦果を収めましたが、長期戦になっては、国力と軍事力に格段の差があるアメリカに勝つはずはありませんでした。
 終戦間近の1945年上半期はアメリカのB29やグラマン戦闘機による空襲が激しく、日本列島の殆ど全ての都市が焼け野原と化したのであります。 そして遂に広島、長崎には原子爆弾が投下され、何百万人もの民間人の犠牲者を出す事になりました。日本ではソ連を介して 戦争終結の仲介を依頼しましたがその願いは受理されず、軍部の一部反対(一億総玉砕)もありましたが、無条件降伏と言う厳しいポッダム宣言を受け入れて、 昭和20年8月15日敗戦を迎えたのであります。
 東京裁判では戦犯者の弁護者はなく、在外資産は全て凍結され、弁護の機会も与えられ無かったと聞いています。
 ともあれ国家間で宣戦布告をして戦争をしたのであるから、負けた方は勝者の言うなりにならざるを得なかったものと推測できます。
 戦後の日本は衣食住何れも欠乏し、貧困のどん底に突き落とされた状態が続きました。しかし戦争に耐えた団結力と勤勉さにより、その後日本経済は順調に快復しました。 そして四十数年後のバブル経済絶頂期、平成元年(1989年)には世界一の債権国(お金持ち)にまで発展したのであります。 戦争に勝ったはずのアメリカが悔しがったのは当然です。
 日本経済の強さは輸出産業の拡大でありますが、その後為替が円高に誘導されて、輸出が落ち込み、経済の崩壊が始まりました。 一方、海外援助資金は前年度との対比で評価されるので、支出は年々増え続けています。そして遂に国家財政は収支バランスが壊れ始めたのです。 そこで返す当ての無い国債の発行が始まりました。平成22年度の国家予算はおよそ90兆円ですが、赤字を埋めるために発行する新規国債や財投債、 借換債等いわゆる赤字国債は単年度で150兆円を越えており、累積赤字は880兆円と膨大化しております。普通の会社なら既に倒産していてもおかしくない 大借金国へと変身しているのです。ところが 政府は借りた相手が外国でなく日本国民からだということで危機感を避けているように思えます。 
 さて、戦後も65年が経過しました。戦前のアメリカでは人種差別が強く、アメリカの大統領に白人以外の有色人種がなる事など考える人も居ないくらいの 差別があったのです。オバマ大統領の誕生は、戦前では考えられない大変革であります。
 明治35年(1902年)ロシアの極東圏南下を阻止するために、イギリスは日本と日英同盟を結んでいますが、白人の多くは有色の日本との友好条約の締結をあざ笑った と言われています。今でこそ当然視されていますが、「人種差別の撤廃」を主張し続けてきたのは日本であり、これが大東亜戦争の遠因でもありました。
 今、日本の国連に対する出費はアメリカに次いで高額を支払っていますが、常任理事国にはなれません。海外援助資金も世界のトップレベルで援助をしています。 しかし日本国内にある普天間基地の管理も自由にできません。
 敗戦国が戦勝国に文句が言えない事情は分かります。しかし敗戦国はいつまで敗戦国として不平等な扱いを受けなければならないのでしょうか?
 戦争によって民間人が空襲や原爆で何百万人も殺害されたのは、長い人類の歴史の中で、大東亜戦争による、日本が最大の被害国であります。 日本の戦争責任は東京裁判で裁かれました。武器を持たない裸身の民間人に対しての無差別爆撃に対しては、何のお咎めもありませんでしたし、 お詫びの言葉さえ聞いておりません。
 小児科医で詩人の中村泰三先生(元埼玉県小児科医会会長)や義父故野添武二(元鹿児島県歯科医師会会長)等沢山の引揚者から引き揚げ時の苦労話を何度も聞きました。 皆さんが似たような内容の苦情なので間違いは無かろうと思います。「ソ連は不可侵条約を一方的に破り、日本領に侵略し、ソ連兵は略奪・暴行を平気で行い、 罪の無い民間人を強制連行し、過酷な労働を強要し、多くの餓死、衰弱死者を出した」と言う内容です。更に日本の北方領土には戦争終結後も侵略を続け、 その後は戦勝国としての立場を利用し、未だ返還する意図も見せません。
 歴史は勝者によって書かれます。戦争に至った経緯や発端は殆ど知らされていません。終戦記念日が近づくと「戦後はいつまで続くのか」 と最近頓に腹立たしく思う爺児医であります。                     

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   麻しん撲滅を願って(8月4日をはしかの日)と提案します 
        さめしま小児科院長 鮫島信一

 人類の歴史の中で医療の発展は人類に多大な幸福をもたらしました。中でも感染症との苦闘は未完成ではありますが、目をみはる多くの成果を上げています。治療に対しては1920年英国の細菌学者Sir Alexsander Fleming によるペニシリンの発見、一方予防に対しては1796年英国の医師 Edward Jenner による天然痘ワクチンの発明等は画期的な出来事でした。その後抗生物質や各種ワクチンは次々に開発されています。ジェンナーによるワクチン発明後およそ200年を経て天然痘は1980年5月8日WHOにより撲滅宣言がなされました。
 麻しんは今日でも死亡例をみる重篤な感染症です。肺炎、中耳炎、脳炎等を合併し、治療が長引く事も度々です。一般的には10日前後で治癒しますが、治癒後数年して突然難治性の脳症(SSPE)を起こす例が100万人に1人くらいの割合で発症しています。現在の医学では治療は対症療法に頼るしかありません。麻しんワクチン接種後にも発症する危険性はありますが、自然麻しんより頻度は低く、現在のところワクチン由来と確認された症例はありません。自然麻しんは一度罹れば二度は罹らないという経験則から、ワクチン接種に消極的な人もありましたが、現在では殆どの人が、「麻しんワクチンは接種させたい」と考えるようになりました。
 麻しん生ワクチンは日本とアメリカで、殆ど同時に独立して開発されましたが、その後も改良が進み、日本のワクチンは接種後の抗体価の上昇率、副反応の低さでは、世界のトップレベルです。(@島信一著:麻疹ワクチン接種後の副反応と抗体価について;鹿児島県医師会報第416号−1985年2月号−)
 わが国では、麻しん患者数は2007年度約3万人(定点届出数3,132人より類推)と推定されていますが、アメリカではわずか34名の患者数でまさに桁違いの患者数です。麻しんウイルスの伝播は人間のみと認められており、DNAを調べるとそのウイルスの由来が分ります。アメリカの症例は殆ど日本由来と判定されているので、世界の国から日本は麻しんの輸出国と批判されているのが実情です。
 アメリカを始め先進国の麻しん発生が少ないのは、ワクチン接種率が100%に近いからです。わが国では麻しんワクチンは1978年より定期接種となりましたが、接種率は低く70〜80%台が続きました。原因としては色々考えられますが、「予防接種で防御できる疾患はすべて予防接種を行う」との概念が未だ十分に確立されていない事や、予防接種の接種管理が地方自治体に任されているので、一部負担金をもらっていたり、通年制でなく特定の時期を決めて行ったり、今なお集団接種を行う市町村があったためと推測されます。通年制、個別接種(いつでも、どこでも)で、負担金は無料が当然と思います。接種料金も8千円から1万5千円と開きがあります。接種料金の統一は現状では「公取法に抵触する」ことになりますが、健康保険法に基づく薬価と同様、国が決めれば「公取法違反」にはなりません。
 麻しんワクチンは2006年度から麻しん風しん混合生(MR)ワクチンを1歳児と5〜6歳児(小学校就学前1年間)の2回接種となりました。更に今年度から5年間の時限処置として、13歳(中学1年生)と18歳(高校3年生)に追加接種することになりました。2回接種する事はブースター効果(不顕性感染による抗体価の上昇)が期待できなくなる事への対応策でもあります。
 昨年度のMRワクチン接種率は全国で87.9%、鹿児島県は83.3%で全国44位の低い接種率です。未接種がゼロにならない限り麻しん発症の危険性は続くわけですから、接種率100%に向けて努力する必要があります。日本小児科医会、日本小児科学会、日本医師会、厚労省は共同して、「1歳のお誕生日がきたら、早めに麻しん風しんの混合ワクチンを接種しましょう!」との広報活動を盛んにやっていますが接種率の向上に至っていません。
 わが国では、少子化・核家族化が進んで、子育ての環境も変化してきました。共働き世帯の子どもは託児所や保育園に預けられるので、診療時間中に予防接種を受けられない子どもが増えているとの理由から、2003年度より3月の第1週を予防接種週間として、時間外でも予防接種を受けられる態勢作りをはじめました。しかし北海道や北部日本では、この時期には未だ雪が残っており、交通が不便との事ですし、インフルエンザの流行も終息していない地域があります。また会社や自治体では年度末で多忙な時期でもあり、あまり効果をあげていません。

 そこで8月4日を「はしかの日」と定め、この日を含む一週間を予防接種週間とする事を提案いたします。

 予防接種には定期接種(麻しん、風しん、MR、DPT.DT.BCG.ポリオ、日本脳炎)と任意接種(水痘、おたふくかぜ、インフルエンザ、肝炎A,B,Hib等)と沢山ありますが、緊急の課題は麻しん撲滅ですので、はしかの日を提案しました。このように分かりやすいネーミングにすると国民も親しみやすく関心も高まります。また、夏休みを利用することも効果がでやすいかも知れません。医療界ではすでに、10月10日(目の日)9月9日(救急の日)、6月4日(虫歯の日)、3月3日(耳の日)等としてすでに国民の中に定着し啓蒙活動は成果を挙げている実例があります。
 現在、定期予防接種は勧奨接種ですが、種痘には義務接種の時期がありました。集団防衛の立場から、未接種者の入園入学規制を明文化すれば接種率は上がります。
 1日も早い「麻しん撲滅宣言」を期待しての提案です。 

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   ウィリアム・ウィリスとの縁          鮫島小児科院長 鮫島信一

 英医ウィリアム・ウィリス(1837〜1894)については著書もあり、ご存知の方も多いと思うが、家内の曽祖父上村泉三は教えを受けた弟子の一人で、ウィリスが愛用した医療器具や皿、コーヒー豆煎り器等の遺品を譲り受け、現存している。鹿児島大学医学部同窓会(鶴陵会)館庭の頌徳記念碑建立の筆頭主唱者(鹿児島医学校での一番弟子と推定)である事に鑑みその足跡を紹介する。
 W.ウィリスは1837年5月1日、北アイルランド、フアマナー郡エニスキレンの郊外で生まれ、1859年エジンバラ大学医学部を卒業後、ロンドンのミドルセクス病院で臨床外科医として研鑚し、文久元年(1861)24歳で英国公使官付医官兼書記として来日した。
 文久2年、生麦事件に遭遇、殺害された英国商人リチャードソン治療のため、横浜外国人居住区から馬で生麦まで真っ先に駆けつけた一人であった。江戸から薩摩に帰国途中の国父島津久光公の大名行列を乗馬のまま横切った英国人を、馬から引きずり落とし、一刀両断に切り捨てた。示現流門弟奈良原喜左衛門の「切り捨てご免」であったが、イギリス側は下手人の処罰、賠償金の要求を迫ってきた。
しかし薩摩も強引に譲らず、翌文久3年には薩英戦争となり、ウィリスも従軍した。錦江湾の英艦船上から、嵐の中の戦いを見て「街中が真っ赤に燃え上がり、台風の闇夜なのに、燃える明かりで船中を歩けた」と記している。更に戦後の和議使者としても英戦艦にて来鹿した。この時薩摩の人々は桜島みかんをお土産に提供した。このみかんが英国人の人気となり、桜島みかんをイギリスでは satsuma と呼ぶようになった。(英語辞典でsatsumaとひけば、小みかんと出ている)
 戊辰の役、鳥羽伏見の戦いの時、英艦隊は兵庫沖に停泊中であった。「戦傷者の傷は銃創で出血多量、死者が続出している。京都薩摩の野戦病院で負傷者の治療をして欲しい」と薩摩藩士大山巌は英国大使パークスに要請した。軍医ウィリスは薩軍の野戦病院に「お見舞い」として派遣された。天皇の居られる京都にはいれた最初の外国人であった。上村泉三は蘭医松木弘安(=出水郡脇元村出身、幕府開成所教授で渡欧の経験あり、後の初代外務大臣寺島宗則)の弟子で、薩摩藩医として従軍し、松木より英語も教えられていたので、ウィリスの護衛を兼ねて助手に指名された。
 戊辰戦争の北上につれ、新発田、高田、会津と薩摩藩の野戦病院は巡回したが、死傷者は他藩の人であっても(敵味方の区別なく)手当てを施した。赤十字活動のわが国の先駆者であったと思う。
 慶応4年9月、元号は明治に改められ、10月天皇は京都から江戸へ移られ、明治2年東京が首都となり、明治新政府が始まった。新政府は幕府の医学所を「医学校兼大病院」として復活させ、薩摩藩の推薦で、院長にウィリスを招聘した。今の東京大学医学部の前身である。病院の看護業務はそれまで男子の仕事であったが、女子を採用し、看護婦を置いた。(看護婦職のはじまりと思う)
 その後、医学取調御用掛、佐賀藩相良智安、福井藩岩佐純(二人ともオランダ医学を勉強しており、オランダ語は英語よりドイツ語に似ていたからと推定されている)の要請でドイツ医学を日本の医学の範とする事が決定し、ウィリスはわずか9ヶ月で解雇された。しかし、ウィリスが優秀な医師であることを知っていた薩摩の人々は鹿児島医学校兼病院長として破格の高給(500円)で鹿児島に招いた。
 鹿児島医学校在職7年の間に英国流最新の医学教育を行い、全国から延べ六百人の門下生が集まった。中でも高木兼寛は才覚優れ、ウィリスの推薦で英国に留学し、帰国後海軍病院長に就任、後に現在の東京慈恵会医科大学を創設した。脚気の病因を白米中心の食生活と推定し、海軍の食事に英国海軍の食事を見習って、麦やパンや肉食を採用し、脚気が激減した実績は誠にお見事であった。
 ウィリスは生麦事件では「薩摩は憎い」といきり立ったが、国や地方には相応の伝統や習慣があることを理解し、以後薩摩の人とも仲良くなり(江夏八重子と結婚し、子宝にも恵まれた)専門の医学を通じて鹿児島の更に日本の医学や文化に貢献した業績はすばらしいと感謝している。
 明治5年鹿児島に行幸された天皇に、ウィリスは「医学とは何か」と講義しているが、草稿の中に次ぎのような記載があった。
「多くの病気の場合、回復に向かう自然の歩みの如きものがある。医師は注意深く見極め、その歩みを助けてやらなければならない。医師がこの自然の歩みを深く知れば知るほど、治療はいっそう適切なものとなる」
「熟練した医師は病気に対して、いつ積極的に手を下すべきか、そしていつ自然の経過にゆだねるべきか、この区別をよく知っている」
「医師の任務は病気を治療する事だけではない。それに劣らず重要なのは病気を予防することである。後者の目的の為に最も大切なのは、良質な食事、清浄な空気と水、適切な衣服、身体を清潔に保つ事、適当な運動、そして不節制な生活を避けることである」
これらは現代医学にも通ずる卓見だと思う。
 今の日本は「何時でも、何処でも、誰でも最高の医療を」と言う医療保険制度が効を奏して、少子化を除けば、すべての衛生指数は世界最高水準を達成出来た。市場原理優先の英国医療保険制度より優れていると認識しているが、草葉の陰からウィリスも同様に肯いておられるのではなかろうか。
 7月26日、日本学術会議の夏季シンポジウムが鹿児島大学医学部同窓会館(鶴陵会館)で行われ、W・ウィリスが話題に上った。 頌徳記念碑の後ろにまわって弟子たちの氏名を見る機会は無いので縁者の末裔としてご紹介した。
記念碑が1メートル前進すれば、後ろに書かれたお弟子さんの氏名も人の目に触れ、記念碑建立の意義も深まるのではなかろうかと思う次第です。

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在鹿児島頴娃町人会10年を振り返って(平成16年5月19日)
  皆さん 今晩は
 本日は、在鹿児島市頴娃町人会の集いを企画しご案内致しました所、公私ご多忙の中ご参集下さいまして有り難う御座いました。
 郷里の頴娃町からも、山内広行町長さん始め役員の方々がお出で下さいまして誠に有り難う御座いました。
 「故郷は遠きにありて思うもの」と言われて居りますが、本日はかって使い慣れた頴娃語で語りながら、親睦・懇親の輪が広がり、 深まれば良いがと願っております。
 実は、今月の11日、鹿児島市のサンロイヤルホテルで頴娃中学校四期生の同窓会を開きました。卒業後53年経っておりますが、 全国から66名集まりました。「やっぱい故郷は懐かしい」と涙を流して喜ぶ同級生もいて、大盛会でありました。
 私どもが中学生のころ、頴娃村が頴娃町に昇格となり、頴娃中のブラスバンドで町政誕生の祝賀会を盛り上げました。 その頃の頴娃村は土地は日本一広い村でありましたが、農作物の生産は貧弱で、貧乏村のレッテルを貼られておりました。 当時の人口は3万8千を超えていたと記憶しております。今は人口1万数千の過疎地ではありますが、鹿児島県一の農業生産 を上げております。今朝の南日本新聞の第1面に「紅さつま」の超早期出荷の情況が写真入で報道されていましたが、からいも 、タバコ、お茶、野菜、豆、花、なかんずくカーネーションは日本の6割を頴娃町で生産している由であります。畜産業も盛んで豚、 牛の売上が年間100億を越え、総生産380億円は鹿児島県の市町村では第1位でありますが、九州でも3番目にランクされる 大農業生産地に発展したのであります。
 故郷 頴娃町で頑張っておられる方々や、行政の立場で舵取りをしてこられた町長はじめ役職員の方々に、改めて敬意を表し、 お礼を申し上げます。
 さて、私事で恐縮でありますが、平成5年4月28日、この会で、前会長飯伏純雄さんから会長職を引継ぎました。 浅学非才の身でありながら、10年間もの長い間、会長職を汚して参りました。ご不満の方もおおられたことと思いますが、 大過なくと申しますか、何とかこの会を続けて来れたのは、事務局長の福吉通栄さん、新徳孝夫さんはじめ役員・幹事の方々や、 会員皆様のお力添えを頂いたお陰と、改めて感謝し、厚くお礼を申し上げます。
 先日の幹事会で、次は木村弘教先生を会長に推薦し、ご本人の承諾も頂きましたので、木村次期会長さんに対しましても、 在鹿頴娃町人会発展の為に、更なるご支援ご協力をお願いいたします。
 さて、僭越ではありますが、福吉さんのメモをお借りして、この10年間を振り返ってみました。
 平成5年4月、私が会長に就任した年に、春の高校野球で頴娃高校の野球部が県大会で、優勝しました。まさにビッグイベントであり、 更に強くなることを期待いたしましたが、後が続かなかったのは、誠に残念であります。
 1. 前頴娃オープンゴルフ
 前頴娃オープンゴルフの始まりについてでありますが、 現在、前えいオ−プンゴルフと称して毎年実施しております。 第1回目は平成8年5月19日日曜日、蒲生カントリークラブでのコンペが始まりでありました。その後春と秋の年2回順調に 回数を重ねておりますが、第17回を、先週9日の日曜日鹿児島ゴルフで企画いたしました。ところが、雨のため、 コンペは中止しました。しかし私を含め3組の方々は和気藹々のうちにラウンドを終了しました。
 頴娃町商工会議所が主催する全えいオープンゴルフ(海の記念日に、喜入カントリークラフ゛貸切って) にも在鹿えい町人会として毎年4組ほどの参加をしております。
 2. 高取浜での地引き網
 高取浜での地引き網大会について調べてみました。
 平成2年4月が第1回で、この時は大魚であり、残りを土産に配れる程とれました。
 その後、味を占めて、毎年続けたのですが、魚の入りが悪く、そのうち、和歌山市で、砒素混入事件があり、どこかで、 食中毒事件があったりして、平成11年4月を最後に以後中止しています。
 子どもたちにとっては良い思い出になるようでありますし、県内で他にやっているところはありませんので、 時期をみて再開しても良いのかも知れません。
 3. 故郷ツアー
 ふるさとツアーについてですが、ご承知の通り、鹿児島は観光地として有名です。故郷頴娃町にも、 歴史上の遺産や、見るべきところが多々あります。平成7年10月10日第1回、平成8年11月10日第2回を実施しましたが、 参加者も少なく、経費も掛かかったりして、以後中止となっています。アグリーランドでの焼肉が美味しかったのを覚えています。
 4. 町人会の集い
 本日のこの町人会の集いの前身は、鹿児島市の遺族会館でおんじょん士の集まり「賢人会」のような会が相当昔からありました。 小磯会長時代に、若い人たちも参加できる会にしようということで、昭和52年頃から今のような会になったようであります。
この会は各校区毎に数名の幹事がおり、その幹事会で年間行事など話し合って町人会の発展に寄与して頂いているところであります。
 5. 名簿の発行
 会員相互の融和団結を図るためには、顔見知りになることが先決ではありますが、住所・氏名・電話番号などが分ると、 更に親睦の輪が広がります。会員名簿は昭和52年発行以来途絶えていましたので、平成5年4月28日、平成9年4月18日、 平成13年4月27日と3回発行いたしました。
 会の趣旨を徹底し、資格者をまめに集めれば会員は、もっと増えるものと思いますが、幹事さんたちのご努力に期待致したいと ころであります。
 以上10年間の思い出をお話いたしましたが、会長としての挨拶はこれが最後になりました。
 今後は一会員として参加させていただきますので、今後ともよろしくお付き合いくださいますようお願い申し上げます。
 ふつつかな会長でありましたが、永い間、ご支援ご協力を賜り、誠に有難うございました。
 本日は時間の参りますまで、ごゆっくりとご歓談頂きますようお願いしてご挨拶にさせていただきます。
 有り難う御座いました。
              平成16年5月19日
               在麑頴娃町人会 会長鮫島信一

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