保 育 情 報


苦情解決・相談について

 職員研修会を行うに際して事前アンケートを実施すると、中堅・主任職員の大半が「研修を通して解決したいこと」の欄に「保護者との対応の仕方について」と記載する比率が年々高まって来ています。また、新任の職員も勤務して一カ月余りの時期に既に半数近くが保護者との対応に苦慮していることを同様のアンケートで述べて います。
 これは、平成
12年度の社会福祉基礎改革により「苦情解決」が制度化されてから顕著に見られるようになった事象です。もちろんそれ以前にも保護者からの要望や苦情がなかった訳ではありません。しかしながら、保護者との信頼関係が必須である保育の現場において、保育者が保護者との対応に悩むというのは深刻です。

 「苦情解決」が制度化されるまでは、保護者から苦情等が寄せられると、各園ではそれぞれに独自の対応をしてきました。この場合、園では十分な対応をしたつもり
でも保護者の側に不満が残った場合、それを具体的に表明する方法はありませんでした。そのために、時として「口コミ」という形で個人的な不満が園の悪評となって広まることもありました。ところが、この「苦情解決」が制度化されたことにより、一定のルールに沿った形で保護者は自分の要望や不満の解決を園に対して相談や要求することができるようになりました。ただし、制度が出来て直ちにこの問題が円滑に処理されるようになったかというと、現状はむしろ厳しさが増したようです。

 それは、一つには「苦情」には様々な類型があるのですが、それを一括して苦情と表現するために、突然保護
者からの苦情が増えたように感じられること。また一つには、社会福祉施設は行政によって苦情解決制度があることを利用者に公開することが義務付けられている上に「保育をサービスとしてお金を払って購入している以上何か不満があったら言わなければ損だ」というような考え方が一部の保護者の間に浸透し始めていること。これらの事柄が、相互に増幅し合うような形で保育の現場に降りて来ていることが、結果として保育者の意識の中に「保護者との対応の仕方が難しい」という感覚となって、経験年数に関係なく現れてきているのだと思われます。

 さらに、この問題が難しいのは「苦情」が起きるのは自らに「落ち度」があった時ばかりではないからです。人は誰もが、自らの中に善悪の基準を持っています。しかも、自分の価値観は「いつも正しい」と無意識の内に信じ込んでいますので、同じことであっても評価は個々に異なります。「苦情は、問題ではないような事を問題にした時に起こる」とも言われますが、保育者にとっては保護者からの無理難題と思えるような要望であっても、その保護者としては「聞いてもらえる」という期待感があるからこそ述べているのです。子どもに対して「みんな違ってみんないい!」と受容するように、保護者に対しても同じ視点を持つことが求められているようです。

 「苦情」と言うと「不平不満」という感覚で受け止めがちですが、その内容には様々なものがあります。苦情解決制度で想定されているのは、次の四つの類型です。

要求型
 世間一般では「クレーム」という言葉で表される内容で、問題の解決を求めて発せられ、現状の回復や補償を期待されるものです。一般企業では、製品を購入して不具合があった場合、それによって生じた損害の賠償や新規製品への交換を求められる時に使われます。園では、保育時間中に子どもがケガをした時の治療費、またそれに伴い子どもが通院・入院して保護者が仕事を休んだ時の休業補償費用などの請求等が、いわゆる「要求型」の苦情の典型として考えられます。

不満型
 これは、保護者が感情的に不愉快だと思ったことから発せられるものです。例えば、子どものことについて園に何か要望をした場合、保護者と園との考え方が違っていたり、またそのことについて保育者と保護者との間で十分な意思の疎通が図れないと、行き違いが生 じてそれが不満となります。あるいは、保護者が園に対して過度の期待を寄せている場合、現実との相違などからそれが不満となることもあります。この他、保育者が何らかの相談を受けたにもかかわらずそのまま放置したり、きちんとした対応をしないなどの責任感や誠意のない対処をした時に、それらに対する不満が「怒り」を伴う形で「苦情」として寄せられることになります。
 

提言型
 これは直ぐには苦情だと気づきにくいものです。「こうであればいいな…」という形で述べられるからで、具体的には保育内容や園の設備等に対する改善事項への助言・忠告や要望といった、どちらかというと建設的意見に近い苦情です。例えば、3歳以上の園児は昼食時には主食(ご飯・パン)を持って登園して来るのですが「冬季は、お昼にはご飯が冷めてしまうので、園で温めてもらえませんか」という要望が出されたことがありました。そこで、園では保温器を購入して弁当箱を温めることにしました。「温めてほしい」という要望の根底には「温かいご飯を食べさせる設備のない状況を改善してほしい」という建設的な形での苦情が窺えます。

示唆型
 保護者の中には、直接的な表現ではなく連絡帳等に記載するなどして、間接的な表現で自分の気持ちを伝達する人もいたりします。季節の変わり目などは朝夕と日中の寒暖差が著しく、長袖の服で登園して来ても日中は下着で園庭遊びをすることもあります。そのような時、連絡帳に「今日は着替えを余分に入れておきました」という記載があった場合、これは「汗をかいたら着替えをさせて下さい」という要望(苦情)だと理解する必要があります。もし着替えをしなかった時は、その理由(汗をかかなかった等)を説明しないと、やがて不満になることもあります。このように、婉曲的な形で示さることも苦情の一つと認識しておく必要があります


 苦情解決が制度化される前年、私の園では「いじめ」を契機として大変な問題が発生しました。それは、ある保護者が「自分の(年長組の)娘が園で特定の子にいじめられているので、その子を叱責したい」との申し出があったことに対して、園では当然のことながらその申し出を丁重にお断りしたところ、園の危急存亡にかかわるような苦情問題に発展したのでした。以後、園との話し合いは拒否される一方で、担任といじめをしていると名指しされた子には非難の手紙が送られ、行政に対しては「いじめを放置・容認する園の社会福祉法人認可を取り消せ」と、園を管轄する福祉事務所さらには県知事に対してまでメールや電話で繰り返し要望がなされました。

 それまで保護者との大きなトラブルなどはなく、どちらかといえば良好な関係を築いてきた園にとって、始めて起こった苦情問題がいきなり園の存廃を左右する内容でしたので、その対応についてはとても苦慮しました。 結果としては、約五週間程で事態は鎮静化したものの、その間には幾度か福祉事務所による聞き取り調査があったり、また園内においては父母の会の役員の方々にお集まり頂き対応策を協議するなどした他、県知事には県議会議員の方を通じて園の立場を説明して頂いたりするなど、多方面からの対応に追われました。また具体的な解決・落着ではなく、福祉事務所への連日の電話が途絶えたことによる自然消滅的な後味の悪い終わり方でした。

 係争の最中、福祉事務所の聞き取り調査を通じて、実は「いじめの問題」は単なるきっかけに過ぎなかったことが明らかになりました。福祉事務所によると、この保護者は園児が年少組の頃から園に様々な不満を抱き始めており、二年半余り間に蓄積したものが一気に爆発したように窺えるとのことでした。そこで、一つ一つ挙げられている問題について検証をしたところ、園ではその都度に適切な対応をして保護者の方には納得をして頂いたつもりでいたのですが、決して満足していた訳ではなく何か問題が起きる度に園への不満が鬱積するような形で内攻し続け、遂には「いじめの問題」で「園を潰してやる!」と叫ぶような事態に到ってしまったのでした。

 「善人ばかりの家庭では争いが絶えない」という言葉があります。この場合「善人」とは「常に自らを善の立場にあると信じている人と」解釈すると良いのですが、私達は誰かと争う場合、「自分は正しい」と考えて主張をします。そのために、「争いは常に善と善とのぶつかり合いによって起きている」と言っても過言ではありません。園では「正しい(適切な)対応をした」つもりであっても、保護者にとってそれが不満の残るものであれば、結果としてはやはり「不適切な対応だった」という評価が下されます。このような意味で、苦情解決の問題とはつまるところ「保護者の要望をどう受け止めるか」という点への配慮に尽きると言えるようです。

 初めて起きた苦情問題が園の存廃にかかわるような内容であったために、園にとっては苦情解決制度を学ぶに際して、難問から先に与えられたようなことになった訳ですが、極度の緊張を強いられるような状況下で実践を通して学んだだけに、今にして振り返ると貴重な経験をすることが出来たように思います。係争中に、いじめの問題を筆頭として二年余り前にまで遡って様々な問題に対する園への不満が述べられたのですが、苦情解決が制度化されていなかったことを割り引いても、保護者の要望を適切に受け止めることへの意識が十分でなかったことが後日反省点として浮き彫りになり、先ずは全職員に苦情解決制度の内容の周知を図ることから始めました。

 具体的には、「苦情」には様々な類型があることを確認し、たとえ正式な苦情の申し出ではなくても日常保護者が連絡帳などの文書に記載してきたことや口頭で述べたことなどは、職員は全て受付窓口である主任保育士に報告し、それを副園長・園長が判断・対応するという体制を敷きました。また、内容によっては文書にして園内で回覧して全職員が周知するようにした他、経過や結末については毎月の児童処遇会議の中で話し合いや報告を行うようにしました。さらに、新たな問題が起きた時はその都度対応策を協議して、以後それをマニュアル化するなど、苦情解決についての意識や視点が硬直化しないよう常に見直しや自己点検を行うよう心掛けています。

 けれども、それでもやはり苦情問題は起きるのです。だからといって、苦情を恐れていたのでは保育そのものが萎縮してしまいかねません。むしろ苦情はきちんと受け止めて解決することが出来れば、保護者と園との信頼関係はより深まっていくことが期待出来ます。説明責任と応答責任という言葉がありますが、前者は園には保育の在り方や方針について予め保護者に説明する責任があるということ、後者は保護者から要望や質問があった時にきちんと応答していく責任があるということです。このことを曖昧にして放置すると、保護者から園に対して「無責任である」とか「誠意がない」などの厳しい言葉が寄せられ、大きな苦情問題へと発展してしまいます。

  「他人の悪口は嘘でも面白く、自分の悪口は本当でも腹が立つ」という言葉があります。確かにその通りで、悪口だけではなく自分のことを思いやっての忠告であっても、正しいと思っていることに苦言を呈されると同様の思いにかられます。ましてやそれが「苦情」となるとなかなか素直には受け入れ難いものです。しかしながらよく考えてみますと、口にしてもらえるからこそ相手の思いに気付くことが出来る訳で、口にしないまま不満が募り、ある日それが突然大爆発するよりはずっと良いと言えます。保護者・保育者の双方共に「子ども達の幸せ」を願っているのですから、苦情解決とは相互の信頼関係を築いていくための入り口の一つかと思われます。

(アソカ保育園・佐々木哲生  『保育資料』2006.4月号〜7・8月号掲載)


個人情報保護の問題について

 個人情報保護法とは何か

平成17年1月から「個人情報保護法」が全面施行されました。これは、本人の意図しない個人情報の不正な流用や個人情報を扱う業者がずさんなデータ管理をしないように、一定数以上の個人情報を取り扱う事業者を対象に義務課した法律で、次の五つの原則から成り立っています。

・   利用方法による制限(利用目的を本人に明示)
・   適正な取得(利用目的の明示と本人の了解を得て取得)
・   正確性の確保(常に正確な個人情報に保つ)
・   安全性の確保(流出や盗難、紛失を防止する
・   透明性の確保(本人が閲覧可能なこと、本人に開示可能であること、本人の申し出により訂正を加えること、同意なき目的外利用は本人の申し出により停止できること)

この法律が施行されて以来、個人情報保護という言葉が先行して、法律制定の意図が十分に理解されないまま何でもかんでも隠してしまうという極端な対応が見られたり、その一方「実効性のない法律」という印象があることから、個人情報の保護については無関心といった対応も見られたりしています。

 では、保育の現場にあっては、この法律とどのように向かいあっていけばよいのでしょうか。個人情報保護法制定の一番の目的は、自分の情報が全く知らない第三者に渡ってしまうのを防ぐことです。世間を賑わせているニュースでも窺い知られますように、銀行・インターネット関連企業・電話会社・カード会社など、さまざまな業種の企業が有している個人情報は、高い金額で売買されています。内部職員の犯罪的な漏洩、事故による過失的漏洩の別はあっても、流失個人情報をもとに、DMや詐欺まがいの電話、郵便物が送られてくるのですから、かなり迷惑なことです。

では、保育現場ではどのようなものが「個人情報」に該当するのでしょうか。園児の氏名・生年月日・家族の住所・電話番号はもちろんのこと、園で撮影した写真で、その個人が特定されるものも指します。また、利用者のみならず、勤務している職員のものも含んでいます。これらの情報が、五つの原則に照らしてきちんと管理されていないと、「個人情報保護法に違反している」と指摘されることになる訳です。

 そこで、これらの個人情報が、現在自分の園ではどのように扱われているか、チェックしてみることが必要です。園内を見渡してみると、意外と多くの個人情報が目に触れる場所にあることに気づきます。くつ箱、タオルに記入してる名前、掲示板、園だより、クラス内の掲示物、ホームページ等の他、電話連絡網の一覧表、園児台帳、保育日誌など。これらが、第三者の手に漏れないような体制作りが「個人情報保護」の名で求められているのだといえます。

 けれども、「情報の漏洩を防ぐために、個人情報の表示は一切しない」と過剰に反応してしまうと、保育の在り方に縛りをかけて非常に窮屈にものにしてしまう恐れが有ります。

 例えば、くつ箱の名前は、定義ではまさに個人情報に該当してしまいますので、「第三者の目にふれないように」と名前を消してしまったとしたらどうでしょうか。子ども達の発達過程には「生活に必要な簡単な文字に関心を持つ」という時期があります。したがって、くつ箱に名前が記載されていると、毎日の園生活の中で、自分の靴の置き場所に書いてある文字を認識出来るようになったり、隣や近くの友だちの名前などにも興味を示して読解力が高まり、大半の子どもが就学前には自分の名前や友だちの名前を判別出来るようになります。つまり、そこには無理のない形での教育的な働きかけと効果が見込まれているのです。ところが、個人情報の保護を優先してくつ箱から名前を取り除いてしまうと、学習の機会が奪われることになる訳です。

 同じようなことは誕生者の紹介についても言えます。どうして、子どもの誕生日や名前(時には写真)を「園だより」や掲示板などで知らせたりするのでしょうか。年間行事の中に、お釈迦さの誕生を祝う「花まつり」、親鸞さまの誕生を祝う「降誕会」などを組み込まれている園もあることかと思われますが、それはみんなに知らせて園全体でお祝いしています。それと同じように、一緒の園に通う子どもの誕生日も「園だより」等を通じて知らせることで、みんなで共に祝うことが出来るからです。子どもにとって、自分の誕生をより多くの人に祝ってもらうことは、自らの存在意義を実感できるまたとないよい機会です。

 その一方、児童台帳や保育日誌など、園児及びその家庭に関する事項を記録した書類などを無造作に机の上に放置したり、保護者の目に簡単に触れてしまうような状況に置かないようにする配慮は大切です。人によっては、他人には知られたくない既往歴や、家庭の事情に関することが記載されているかもしれないからです。また、職員には守秘義務も課されていますので、職務上知り得たことを噂話で漏らしたりすることは決してあってはならないことです。

 個人情報保護に関して留意すべきことは、「子どもの最善の利益」です。保育施設においては、保護者に対して「なぜ、この個人情報を保護しているのか」あるいは「子どもの発育・発達にどのような影響を及ぼすのか」という説明責任をきちんと果たして、保護者に対して園の保育の在り方を私周知していく必要があります。

 以上のことから、個人情報の取り扱いについては、子どもの利益・不利益をその判断の基準に据えることで、保育現場の実情に則した「個人情報の保護」が実現していくことと思われます。
 このような意味で、社会におけるいろいろな法令についても正しく理解して、それを保育の中に正しく反映させていくことが、保育の現場にも強く求められているといえるようです。


 保育“今”気づくこと

 
昨年来、日本は韓流ブームとかで、韓国人スターを思慕崇拝する日本女性の熱中ぶりが雑誌やテレビで幾度となく報道され興味がなくとも眺める羽目になることもしばしばです。いつの時代もそうしたブームはあるものですが、今回驚いたのは、憧れの君をひと目見んと全国各地から夜もまだ明けない空港やホテルへ詰めかけた女性ファンの多くは、四十代五十代であるということです。母親やおばあちゃんたちの世代が夢中になっているというわけです。
 ある調べでは、「子どもを育てるにあたって困ると思うこと」の上位に「自分の時間が持てない」というこが上がっていたといいます。仕事の両立、経済的事情などと同レベルで「自分の時間」を確保するために、出産を躊躇(ちゅうちょ)する親たち。畑仕事と家事を一手に担い、子だくさんの家庭を切り盛りし、夜なべで針仕事をしていた親たちの自時代とは、まさに時代が違います。二十四時間のすべてを家庭のために惜しみなく注いでいた当時の母親たちには「自分の時間」という発想すら浮かばなかったであろうことは、想像に難くありません。今、「自分の時間」を夢みる二十、三十代の母親世代のみならず、おばあちゃん世代も自分の時間を趣味や娯楽やらで自由に使い、いつだれが子どもたちを育てるのか…ついつい心配してしまいます。
 個人の選択の自由を前提としつつワーキングマザーを支援する方向で少子化対策が進められていく中で、保育はある意味奇妙なことになっているかもしれません。フルタイムで働く母親の残業にまで備えたた長時間体制、他所との差別化のための英才教育カリキュラム、マニュアルどおりの授乳や食事。効率的で、合理的で、計算され尽くした非の打ち所のない“保育”という名のシステムが“開発”されてしまっているのです。まるでコンピューターがはじき出すように。それらを求めているのはいったい誰なのでしょうか。「自分の時間」や「自分の仕事」を我が子よりも優先する親世代かもしれません。自由を謳歌(おうか)し子や孫への責任を負いたくない祖父母世代かもしれません。レストランや娯楽施設並みのサービスを追求する余り、保育の真髄を忘却のかなたに置き忘れた保育する側かもしれません。でも、主役の子どもたちが求めている保育のあり方ではないことだけは間違いない、そう思うのです。主役の出番を封じて、脇役たちが自分のたちのセリフばかりを声高に叫んだら、それはもう茶番というしかありません。
 寝る、排泄する、食べる。そういった自然的欲求のリズムは一人ひとり違うはずです。まして零歳〜三歳未満においては、個別でなければなりません。ということは、私たちが集団保育の中で個別的な保育を実践していくためには、相当な知恵を絞らなければならないはずです。一日の流れがパターン化している中では、「保育」本来の意味や意義は失われてしまっているのです。合理的でない時間や空間の中で子どもたちの想像力や個性が引き出されていくように、保育も、管理や効率を忘れたとき、初めて創造的で個性的な保育環境を生み出すことができると思うのです。
 少子化で園の運営が難しくなってきたことばかりを嘆いても、何も始まりません。卒園・入園の季節を迎え、子どもたちによって生かされている自分に気づき、改めて省み、感謝の心から新たなチャレンジで応えていきたいと思います。
(保育連盟理事長・宮地最勝  『保育資料』2005.3月号掲載)



 一人でないわたしに気付くこと

 
今年もまた、一人ひとりの子ども達が「いのちの尊さ」に気付いていけますように!と願っております。
 さて、一昨年のことになりますが、私立幼稚園協会の教師研修会(鹿児島・九州大会)において、分科会テーマ「多様な人とかかわる」−(共に生きる)」という題で、私共の園が研究発表をさせていただく機会に恵まれました。今まさに、この時代に求められている研究課題です。「さまざまな世代や文化・多様な価値観や能力の異なる中で生活することによって、互いに育ち合い生きることの意味を考える。」というのがその主題でした。
 年長児との園生活を主に、実践してきたことを発表したのですが、子ども達は家族の中にいる自分・近所や知っている人々に囲まれている自分・園に通いはじめて広がっていく人々とのつながりに気付き始めていきました。それらの人々を『わたしのまわりにいて下さる方々。』として、絵に描いてみることにしました。多く描いた子は百七名もの人々を描いていました。描く人数には個人差もありましたが、みんな「多くの方々に支えられて育っていること」への気付きが深まっていきました。
 成長の過程で迎える「反抗期」は、子ども達にしてみれば自分の殻を破ってひとまわり脱皮しようとする姿であり、方向は人間としての自立へ向かうものでもあります。また、子どもたちがやがて到来する思春期を乗り越える力は、幼児のこの時期に培われると聞いています。
 研究発表の場では、外松太恵子先生に次のようなご助言をいただきました。「中学入学時に、幼稚園の時に描いた『わたしのまわりにいて下さる方々』を渡すことにしてみたら?」と。そこで、その時の絵は園に預かってあります。なお、絵を描くことは、現在も引き続いて子どもたちが「一人ではない私に気付くこと」への活動となっています。卒園して六年後にその子どもたちに手渡すという計画は、孤立してしまいがちな年齢になった時、きっと自分を見つめ直す素敵な機縁になることだろうと期待しています。
 卒園児の姿が、成長と共に園から遠のいて行くのは仕方がありませんが、時折高学年や中学生になった卒園児が遊びに来ている姿を見ることがあります。ある日曜日の夕方に園に行ってみると、中学三年生の男の子九名が園庭で遊んでいました。何をしているのかと見ると、缶蹴りならぬボール蹴りをしていました。近寄ると鬼役の子の目から隠れていた卒園児が私に気付いて、まるで園児の時のように「先生シッ〜!」と。鬼の目を盗んでボールを蹴りにいきたい様子でした。大きくなった彼らにとって、決して今はもう広いとは言えなくなったこの園庭を選んで遊びにきてくれていることを嬉しく思いました。それと同時に、テレビゲームやパソコンを相手にして遊ぶのではなく、一つのボールで無心になって遊ぶ姿や、卒園児が仲間を連れて来てくれたことに私の気持ちは温かくなりました。彼らの表情もとてもすがすがしく、メールの中の絵文字などでは感じ取れない生き生きとした姿がそこにはありました。
 本園は、昨年創立五十周年を迎えました。卒園児も四千名を越えているのですが、この五十年間に社会も著しく変化し、子ども達の育つ環境は厳しくなってきています。しかし、子どもたちの本質は何も変わりません。毎年出会う子どもたちは「私を見て!」と私たち教師に真っ直ぐに向かってきてくれます。どんな時代になろうと、子ども達は大人に愛されたいし、多くの友達を求めることでしょう。
 これからも卒園児の数は増えていきます。その卒園児達が「私は一人ではない。支えて下さる多くの方々があり、また自分自身も周りの仲間を支えている一人であること」に気付くことの出来る人になってほしいと思います。そして、幼稚園の庭がいつでも子ども達の集い合える場となることを願わずにはおれません。
 (串木野幼稚園・主任教諭 榊 弘子  『保育資料』2005.1月号掲載)


 子どものサインを見落とさずに

 
「保育園の先生になっているといいな」
 私が小学校6年生の時に、タイムカプセルに入れた『二十歳の自分へ』宛てて書いた手紙の一節です。私は、今その時の夢がかなって、保育園の先生として働いています。
 勤務したばかりの頃は、まるで右も左もわからず、先輩の先生方がしているのをただみているだけのことが多かったように思います。そのような中で、あっと言う間に一年が過ぎて、今は後輩も出来、先輩方のアドバイスに育まれ、そして何よりも元気いっぱいの子どもたちに囲まれて、毎日楽しく保育をすることが出来ています。
 園の一日は、子どもも保護者も保育士もみんな本堂の「のの様」にご挨拶をして始まります。そして、毎朝全職員が集まって、園のこと、子どもたちのことについてミーティングをします。私は、初めの頃は「このようなことまで話すんだぁ」と、他人事のように受け止めていたところがありました。経験を重ねた今では、全職員が保育園全体のこと、あるいは子ども達一人一人のことを理解し把握しておくことで、もし何かあった場合でもすぐに適切な対応をすることが出来るので、これはとても大切なことだと理解するようになりました。
 私が初めて担当したクラスは2歳児でした。最初の頃、子ども達は落ち着きがなく、いつの間にか保育室からいなくなったり、まだ言葉をうまく話せないせいか、ついお友だち噛んでしまうことがよくありました。そんな子ども達が、やがて友だち同士でオモチャの貸し借りをして一緒に遊んだり、お話しをきちんと座って聞くことが出来るようになったり…と、一年間一緒に過ごすうちに日に日にそして着実に成長していく様を目の当たりにすることが出来ました。正直な思いとして、保育士の仕事は決して楽しいことばかりではなく、大変なこともたくさんあります。でも「やっぱりこの仕事を選んで良かったなぁ」と思えるのは、この子どもたちと出会えたからだと、改めて実感しています。
 今年度は、0・1歳児クラスを担当しています。前年度の2歳児とは違って、また新たに覚えることが多くあります。日々かかわる中で、子どもたちは喜こんだり怒ったり、泣いたり笑ったりしながら、自らの思いをいめいめな形で表します。それらがまだ具体的な言葉とはならないだけに、子どもたちが何を訴え、何に気付いてもらいおうとしているのか、子どもたちが出しているサインを見落とすことのないようにしたいと思います。そして、何よりも毎日楽しい雰囲気の中で過ごせるようにしていければいいなと考えています。
 「子どもは保育者を映す鏡」という言葉をよく聞きます。それは、子どもは日々共に過ごす保育者の全てを、善きにつけ悪しきにつけ、何にでも反映してしまうということを物語っています。子どもは、いつでも保育者を見ています。ですから、いつ見られても、模倣されても、恥ずかしくないよう、保育者としての自覚と責任を忘れないようにしたいものです。そして、子どもはもちろん保護者、さらには近隣野人たちとも笑顔で接し、明るさの絶えない保育士になりたいと思います。
 これまで、仕事を失敗した時や、子どもに対しての声かけ・援助などがうまく出来なかった時など、「自分は保育者に向いていないのでは?」と思うこともありました。そんな私が、これまで頑張ってこれたのも、私の回りにいる全ての人々のお陰だと思い感謝しています。
 勤めてからは仕事を覚えることに夢中で、あっという間間に過ぎたように感じます。これからも、まだまだ覚えなければならないことはたくさんありますが、子どもの頃の夢が現実となった喜びが決して色褪せることのないよう、一日一日を大切に過ごして、子どもたちと共に成長していける、そんな保育士でありたいと思います。
 (覚照保育園・福岡美佐  『保育資料』2004.12月号掲載)

 
  頑張る心

 
保育士として勤務し、年数を重ねていくうちに『頑張る』という言葉の遣い方やとらえ方について考えるようになりました。それは、子ども達に対して「励まし」のつもりでかけた言葉が、もしかすると子ども達にとっては「負担」になったかもしれない…、そう思えることがあったからです。そんな私の疑問に応えてくれるような子ども達の姿がいくつかありました。これは、その中の出来事の一つです。
 毎年9月の終わりになると、当園の運動会が催されます。9月とはいえ、30℃以上の気温が続き、そんな中で練習している子ども達や職員は8月よりも日焼けして顔や手足が真っ黒になっています。ある年の運動会で、4・5歳児が一緒に行う組体操の中に桜島をイメージしたものを作ることになり、そのポーズの一つとして11名の園児で4段のピラミッドに挑戦することになりました。一番上で立ち上がってポーズを決める役割を担うことになったのはY君です。どちらかといえば小柄なY君は4段のピラミッドともなると、自分の身長よりも高い場所に立つことになります。おそらく、フラフラする台の上では怖いことでしょう。また、成功するためには下で支える友だちや周囲でポーズをとって待つ友だちみんなの力が必要です。練習開始の頃は、暑さとか重さからなかなかうまくいかずY君が上に乗る前に崩れていました。職員も手足の位置や体重のかけ方など、ああすれば、こうすればと一緒に考えながら練習を進めましたが、思うようにはいきませんでした。
 本番一週間前のリハーサルでは、真っ白い体操服が真っ黒になるまで練習に取り組んでいる子ども達の姿に、言葉が詰まるほどでした。ですから、精一杯頑張っている子ども達に向かって「頑張って」などとは言えません。ようやく口をついて出てきたのは「出来るよ」「すごいね」という簡単な応援の言葉だけでした。そんな中、ピラミッドが出来るのを待つ間に、周囲周囲でポーズをとって待っている子ども達の間から「ガンバ〜レ!、ガンバ〜レ!」という大きな声援が飛び出して来ました。じっと支えながら待っている子ども達の姿勢も決して樂ではないはずです。けれども、その声援はみんなで一つのものを作り上げようとしている一体感から、自然と頑張っている友だち、そして何よりも頑張っている自分に対してわき上がってきた声だったように思います。ただ、残念ながらこの日のリハーサルでも成功することができないままに本番を迎えることになりました。
 午後の部最初のプログラムです。太鼓の力強い音と共に目を輝かせた子ども達が駆け足で入場してきました。一人ずつの演技、二人・三人ずつの演技を終え、いよいよクライマックスの桜島です。「ドン!」「ドン!」と太鼓の音が鳴る度に緊張感が増します。「ドドドド・ドン!」最後の太鼓の音で、きれいな桜島のポーズが目の前に出来上がっていました。Y君も両手を広げて、凛々しい姿で立っています。終了と同時に目に映ったのは、子ども達の嬉しそうで自信に満ちた笑顔と、保護者・職員の大きな拍手、そして感動の涙でした。
 その後の反省会で知ったことですが、Y君は高さへの恐怖心から自分がなかなか立ち上がれないことをお母さんに話したそうです。そこで、ご両親は何とかその恐怖心を取り除くために、お二人で下の馬になり、何度も何度も練習して下さったということでした。一生懸命練習してきた子ども達と職員、そして子ども達を支えて下さった保護者の方々、みんなの気持ちが合わさっての成功でした。
 この経験を通して、保育の中では保育者側の思惑によって子どもたちに頑張らせるのではなく、子どもが自分の目標に向かう中で、くじけそうな自分、あきらめてしまいかける自分を、自ら励ましていけるような「頑張る心」を育んでいけるような援助をしていくことが大切なのではないかと感じました。
 私の発する「ガンバレ〜」が、子ども達に対する単なる自己満足の声かけや、子ども達が頑張っていることを認めないかのような叱咤激励に陥らないことを心に置いて接していきたいと思います。
 (紫原保育園・秋元凉子  『保育資料』2004.10月号掲載)
 

 
  共に育ち合う存在

 
K君は、昨年4月保護者の勤務の都合で転園したのですが、夏休みになって「お友だちや先生に会えるかもしれない」と、本園に遊びに来てくれました。その時、お母さんがこんな話をしてくださいました。
 『(転園した先の)垂水でも、アゲハチョウやモンシロチョウの姿をよく見かけます。Kはチョウの姿を見る度に、「あのチョウは、草牟田幼稚園から飛んできたんだ」と興奮気味に言うんです。私はその度に「Kを追いかけて飛んで来たのね」と応じ、そんなことを考える我が子の成長に驚いています。』と。
 年少組で幼稚園に入園してきた当初は発語も少なく、友だちと関わることの少なかったK君が、園庭の隅の花園で独りで虫と遊んでいたころ思い出されたのか、その後の成長の跡をお話されるお母さんの目もキラキラと輝いていました。
 ところで、本園は交通量の多い国道3号線の近くに位置し、周囲をビルに囲まれているため、本来は園内で虫を見ることが出来るような自然環境ではありません。そんな環境下の園庭でもパンジー、キャベツ、キンカンなどを植えておくと、春の訪れを待っていたかのようにどこからともなく数種のチョウが飛來し、産卵をして旅立って行きます。食草を求めて、いのちを継承するチョウの営みに、言葉にし難い感動を覚えます。
 K君は、登園すると花園のところにしゃがみこんで卵や幼虫を探し、それらを見つけると飼育ケースに入れて、見つめ続けていいました。また、幼虫£を見つけると「チョウの赤ちゃんがいた」と喜び、脱皮すると「洋服を脱いだ」、さなぎになると「赤ちゃんが固まった」などと、いつも自分なりの表現でその感動を言い表していました。
 そのようなK君に刺激を受けた他の子どもたちも、やがて飼育ケースの中で成長して行くチョウに興味を示すようになりました。ただ、最初は興味本位で飼育ケースをたたいたり幼虫を手にとったりして、まるで遊び道具であるかのように扱っていました。そのため、飼育している幼虫やさなぎを死に至らしめてしまうということが少なからずありました。しかし、子どもたちはその苦い経験を通して、いつしか生きものの「生と死」を具体的に感じることが出来るようになっていったように思われます。
 飼育ケースの中で成長を遂げたチョウを外に放すと、子どもたちは「バイバイ」「遊びに来てね」と、思い思いの言葉をかけながら、飛んでいくチョウにいつまでも手を振り続けていました。それは、幼虫・さなぎ・成虫といったような、単なる言葉としてではなく、「生きる」ということを3歳児なりに実感し始めたと思える瞬間でした。
 K君は、草牟田幼稚園から遠く離れた土地でチョウを見かけた時に、「自分が育てたチョウが会いに来てくれた」と口にするような素晴らしい感性を持つ子どもに育ってくれたことを、お母さんのお話を聞いてとても嬉しく思いました。おそらく、そのK君に影響される形で飼育にかかわった他の子どもたちの中にも、様々ないのちと共に生かされている自分を感じることが出来るような、瑞々しい心が育まれているに違いありません。
 私は「保育」とは、保育者と子どもは一方的に教え教えられる関係ではなく、「仏の子」として共に育ち合う存在なのだということを改めて実感することができました。これからも、子どもたちと園庭を一緒に走り回ったり、楽しい時は大声で笑いあったり、あるいはその子のためにと思った時は本気で叱ったりするなどして、いつも子どもたちの心に寄り添うことを心掛けながら、共に育ちあって行くことができたら…と、思っています。
 (元・草牟田幼稚園・備 亜砂美  『保育資料』2004.6月号掲載)
 


     『情報化』について 

  「まことの保育」を進めていく上で大切なことは、いうまでもなくその保育を行う保育士・教諭等がその理念をきちんと理解し、方針にそって日々の保育を展開していくことだといえます。また常に自らの在り方を仏さまのみ教えに照らしながら「共に育ち合って」いければまさに理想的です。とはいえ、それを具現化できるのは、そこに子どもたちが集まって来てくれてこそです。

 近年は情報化社会といわれています。そこで際すぐに思い浮かぶのは、インターネットを利用したホームページということになるのですが、具体的「効果」となるといささか疑問です。それよりもむしろ「効果的」なのはやはり旧来からの「口こみ」です。

 マーケティングの世界では、「顧客満足度」という言葉が用いられますが、サービス・商品への満足度の数値が大きいと、その顧客が今度はそれを知人や友人に紹介して、さらなる売り上げが期待出来るという訳です。これを保育の現場に例えると、園の保育内容・職員の対応等が、園児及び保護者に高い満足度を与えると、今度はその人たちが、親戚・友人を始め、職場の同僚達にも園を紹介してくれて…、という訳です。

 ただし、好感を与えた場合だけでなく、満足度が低かった場合でも情報が伝わっていくことはいうまでもありません。そうすると、まだ園にかかわりを持っていない人たちにアピールすることにも増して、既に園に直接かかわりをもっている園児・保護者に高い満足感(通園満足度)をもってもらうことが、実は「情報化」の手始めだといえるように思われます。

 そこでこれから考えていかなくてはならないのは、保育理念に掲げる「共に育ち合う」ということの具現化です。これまで「共に」とは、園児と保育者ということで理解される場合が多かったのですが、これからはここに「保護者」も入れていく必要があります。なぜなら、第1子が1歳であれば、その保護者は、戸籍上の年齢はともかくとして、親としては「1歳の親」に過ぎないのです。だから子どもと保育者だけでなく、親も「共に育っていく」ような在り方を模索していくことが、これからの重要な課題だといえます。そのためにも、多くを語りあい、「共感」していけるような対処方法(いわゆるカウンセリング)を園内研修を始めとして、種々の研修に取り入れていくことがこれからは大切であるように思われます。

 ホームページ・パンフレット等が目に見える「形のある情報化」であるとするならば、「通園満足度」を高めることは「目に見えない(口こみによる)情報化」であるといえます。これからは、両方の大切さを認識して、バランスのとれた情報化が求められていくような気がします。
(鹿児島教区保育連盟)

      『お寺の園』その存在理由を考える
 

 2002年の夏に催された鹿児島教区保育連盟担当の九州地区保育研修大会では研修テーマに『子どもを取り巻く“環境”を考える』という事項が掲げられました。シンポジウムでは、このテーマをさらに以下の4つ(1.園と保護者とのかかわり 2.保育者としての在り方 3.お寺の園のこれからの在り方4.子どもの健康・安全)に開いて、より深めていくという試みがなされました。

 それぞれに重要な課題ばかりですが、ここではその「3.お寺の園のこれからの在り方」について述べみたいと思います。近年は、経済状況の影響も多分にあるのでしょうが、社会・保護者の意識構造の変化により、子どもを保育園に預ける人たちが増えてきました。したがって、「少子化」が深刻化しているにもかかわらず、保育園では希望する園に入れない「待機児童」が発生するという一見矛盾とも思える状況がみられるようになってきました。ただし、これは全国一律に均等にみられる現象ではありません。一部の大都市圏の問題であり、むしろ過疎化が進行している地域では定員割れが深刻化しているのが現状です。

 ところで、この待機児童解消の施策として、定員枠の拡大や規制の撤廃などの弾力的運用や「規制緩和」の名のもとに従来の社会福祉法人だけでなく企業等の参入も認められるようになってきました。「規制緩和」という言葉には、何となく良い響きが感じられなくもありませんが、これは簡単にいうと「何でもあり!」ということに他なりません。例えば、従来は「2km以内の設置」は原則としては認められていませんでした。いうまでもなく「適正配置」ということであり、「乱立防止」のためです。ところが、これが「撤廃」されたため、これからは極端にいうと「目の前」に新設しても良いということになる訳です。しかも「規制緩和」は言い換えると「弱肉強食」みたいなものですから、園児獲得のためには毎日の保育時間を延長するだけではなく、休日も預かります、仕事が休めないでしょうから病気でも預かります、小学校では英語が始まりますから園でも早期教育のために実施します、などなど…、といった具合に(既にこれらを実施されている園もあるでしょうから「否定」はしませんが…)園本来の独自性というより、近隣の園との「競争」を意識するなかでの事業が展開されていくのでは? といった感を否めません。

 確かに、どれほど素晴しい保育の理念を掲げていようとも、園児が集まらないことには、何もしていないのと同じですから、それらの努力も必要なことはいうまでもありませんが…。

 ところで、このような社会状況の中にあって、「お寺の園の存在理由はどこにあるか」というのがここでのテーマです。もしその「理由」を明確に見出せないままに日々の保育を展開しているとしたら、それはまさに「羊頭狗肉」。「まことの保育」という看板を掲げてはいてもその内容たるや園行事にクリスマスをしないだけのごく普通の園…、ということになりかねません。「お寺の園」、それは端的には「宗教(真宗)保育」を行う園ということになるのですが、現代社会におけるその存在意義(理由)を自他(他とはこの場合、社会、並びに保護者)共に頷けるような在り方を見い出すことが、これからの重要な課題だといえるのではないでしょうか。

 また、保育園に取り入れられる「第三者評価」とは『各園の自己宣言』だといわれます。これは、一定の基準を示して日本国中に「どこをきっても金太郎飴」みたいな保育園を作ることが目的ではなく、「自分の園はこのような保育を行う」ということを各園が自己宣言し、それに対して第三者がその宣言通りの保育を実施しているか否かを客観的立場から評価するという在り方だといわれています。

 そうしますと、浄土真宗本願寺派に加盟している保育園・幼稚園は基本的には「まことの保育」を行うことを標榜(宣言)しているのですから、「まことの保育」の理念を方針を園の職員ひとりひとりがきちんと理解し、日々その実践に努めているか否かがこれから問われていくのだといえます。

 このような意味で、いわゆる「お寺の園」は『尊いみ教えを信じて仏の子どもを育てる』こと縦糸に、社会状況に即応した在り方を横糸に折り込みながら日々の保育を展開していくことが大切だと思われます。
(鹿児島教区保育連盟)