保育主題  

 幼児教育において育みたい資質・能力

平成30年度に行われた「保育指針」「幼稚園教育要領」「難こども園・保育教育要領」改訂では、幼稚園・保育園・こども園は、すべて幼児教育施設として位置付けられ、幼児教育が小学校教育に繋がっていくことが明確になりました。子どもの育ちについても、乳児からの発達の連続性や「資質・能力」を中心とする考え方によって、幼児教育と小学校以上の学校教育で共通する力の育成をすることになりました。
 「資質・能力」とは、小学校・中学校・高等学校での教育を通して伸びていくもので、幼児教育ではその基礎を培うことになります。その基礎的部分は、幼児が身近な環境に主体的に関わり、環境との関わりや意味に気付き、これらを取り込もうとして試行錯誤したり考えたりするというプロセスを通して子どもの中に育っていきます。そこで、幼児教育において育みたい資質・能力の三つの柱は、以下のように定義付けられました。


@「知識及び技能の基礎」
遊びや生活の中で、豊かな体験を通じて、何を感じたり、何に気付いたり、何がわかったり、何ができるようになるのか。

A「思考力、判断力、表現等の基礎」

遊びや生活の中で、気付いたこと、できるようになったことなども使いながら、どう考えたり、試したり、工夫したり、表現したりするか。
B「学びに向かう力、人間性等」

心情、意欲、態度が育つ中で、いかによりよい生活を営むか。

 小学校以降になると、資質・能力の三つの柱は「知識及び技能」「思考力、判断力、表現力等」「学びに向かう力、人間性等」となり、高等学校まで一貫して育まれるものとなります。「知識及び技能」「思考力、判断力、表現力等」は、何かについてしることや考えるという【知的な力】です。
 「学びに向かう力、人間性等」は、さまざまなことに意欲を持ち、粘り強く取り組み、高いところに向けて頑張っていく力のことで、【情意的(または協働的)な力】です。
 この【知的な力】と【情意的(または協働的)な力】が相互循環していくことが必要で、幼児教育はそのような力を育てていこうとするものです。
 このような意味で、今回の改訂により、幼児教育の基本的な部分や幼児期に育むべき力がより明確になったと言えます。

「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」と保育主題

1. 健康な心と体
 園における生活の中で、充実感をもって自分のやりたいことに向かって心と体を十分に働かせ、見通しをもって行動し、自ら健康で安全な生活をつくり出すようになる。

照育

2. 自立心
 身近な環境に主体的に関わり様々な活動を楽しむ中で、しなければならないことを自覚し、自分の力で行うために考えたり、工夫したりしながら、諦めずにやり遂げることで達成感を味わい、自信をもって行動するようになる。

精進

3. 協同性
 友達と関わる中で、互いの思いや考えなどを共有し、共通の目的の実現に向けて、考えたり、工夫したり、協力したり、充実感をもってやり遂げるようになる。

和合

4. 道徳性・規範意識の芽生え
 友達と様々な体験を重ねる中で、してよいことや悪いことが分かり、自分の行動を振り返ったり、友達の気持ちに共感したり、相手の立場に立って行動するようになる。また、きまりを守る必要性が分かり、自分の気持ちを調整し、友達と折り合いを付けながら、きまりをつくったり守ったりするようになる。

領解

5. 社会生活との関わり
 家族を大切にしようとする気持ちをもつとともに、地域の身近な人と触れ合う中で、人との様々な関わり方に気付き、相手の気持ちを考えて関わり、自分が役に立つ喜びを感じ、地域に親しみを持つようになる。また、園内外の様々な環境に関わる中で、遊びや生活に必要に情報を取り入れ、情報に基づき判断したり、情報を伝え合ったり、活用したりするなど、情報を役立てながら活動するようになるとともに、公共の施設を大切に利用するなどして、社会とのつながりを意識するようになる。

報恩・奉仕

6. 思考力の芽生え
 身近な対象に積極的に関わる中で、物の性質や仕組みなどを感じ取ったり、気付いたりし、考えたり、予想したり、工夫したりするなど、多様な関わりを楽しむようになる。また、友達の様々な考えに触れる中で、自分と異なる考えがあることに気付き、自ら判断したり、考え直したりするなど、新しい考えを生み出す喜びを味わいながら、自分の考えをよりよいものにするようになる。

反省

7. 自然との関わり・生命尊重
 自然にふれて感動する体験を通して、自然の変化などを感じ取り、好奇心や探究心をもって考え言葉などで表現しながら、身近な事象への関心が高まるとともに、自然への愛情や畏敬の念を持つようになる。また、身近な動植物に心を動かされる中で、生命の不思議さや尊さに気付き、身近な動植物への接し方を考え、命あるものとしていたわり、大切にする気持ちをもって関わるようになる。

讃嘆・報謝

8. 数量・図形、文字等への関心・感覚
 遊びや生活の中で、数量や図形、標識や文字などに親しむ体験を重ねたり、標識や文字の役割に気付いたりし、自らの必要感に基づきこれらを活用し、興味や関心、感覚を持つようになる。

信順

9. 言葉による伝え合い
 先生や友達と心を通わせる中で、絵本や物語などに親しみながら、豊かな言葉や表現を身に付け、経験したことや考えたことなどを言葉で伝えたり、相手の話を注意して聞いたりし、言葉による伝え合いを楽しむようになる。

聞法

10. 豊かな感性と表現
 心を動かす出来事などに触れ感性を働かせる中で、様々な素材の特徴や表現の仕方などに気付き、感じたことや考えたことを自分で表現したり、友達同士で表現する過程を楽しんだりし、表現する喜びを味わい、意欲をもつようになる。

歓喜


● 阿弥陀さまをおがむ子(信順・讃嘆・歓喜)

*数量・図形、文字等への関心・感覚

*豊かな感性と表現

*自然との関わり・生命尊重

● ありがとうのいえる子(照育・反省・報謝)

*思考力の芽生え

*健康な心と体

*自然との関わり・生命尊重

● お話をよく聞く子(聞法・領解・精進)

*言葉による伝え合い

*道徳性・規範意識の芽生え

*自立心

● みんなと仲良くする子(報恩・和合・奉仕)

*協同性

*社会生活との関わり

 「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」とまことの保育の「主題」は、表現の仕方に若干の相違はあるも  のの、目指すところは概ね重なっていると言えます。

 今回の改訂のポイントとまことの保育との関わり 

今回の改訂では、これらの「力」を就学前に十分育んだうえで、小学校の入学直後には、生活科を核とした「スタートカリキュラム」と呼ばれる総合的な授業を行い、各教科の本格的な学びへと円滑につなげようとしています。

この「幼児期の終わりにまで育ってほしい姿」は、「幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続の在り方に関する調査研究協力者会議」の報告書で、「学習指導要領においては、育つべき具体的な姿が示されているのに対し、幼児期については幼稚園教育要領や保育所保育指針からは具体的な姿が見えにくい」という指摘があり、小学校側からの要請を受けて歩み寄る形で編み出されたもので、5領域にあるキーワードを小学校学習指導要領の記し方に沿って示したものです。

 幼稚園・保育園・こども園・小学校との間で、子どもの育つべき具体的な姿を共有し、それが共通に認識すべき事柄として明示されたことは意義あることです。けれども、既に5領域に関する知識も保育の実績も十分にある保育者にとって、この内容はこれまで大切にしてきたことばかりです。

 また、一々の項目の内容は、これまで「まことの保育」において「保育主題」として掲げられてきた12の項目とめざす内容はほとんど重なっています。したがって、まことの保育を推進してきた園にあっては、何か新しい取り組み方を模索する必要はなく、むしろこれまでのあり方をさらに深めていけばよいのだと言えます。

 ところで、「幼児期の終わりにまで育ってほしい姿」が保育指針や教育要領等に列挙されると、保育の現場では10の姿をそのまま到達目標にしたり、これらに当てはめて子どもを評価したりする在り方に陥ってしまうことが危惧されます。けれども保育者が評価しなければならないのは、子どもの出来不出来、つまり到達できたかどうかということではなく、保育環境を含む実践の内容や方法についてです。

 子どもが生きる現実や、今ここに存在する一人一人の子どもの姿こそ大切にするべきで、10の姿や保育主題はあくまで方向性と考えれば良いように思われます。

  保育には、大人の願いが込められます。そのため、そこにはそれぞれの保育者の子ども観や価値観が投影されます。それは当然のことであり、人から人へ手渡す営みが保育でもあると言えます。しかし、一方的な期待やこうなるべきだという要請は、時に子どもたちを苦しめることになります。

「まことの保育」では「私の思い」ではなく「仏さまの願い」を依りどころにします。それは、私たちが自分の意識を離れて物事を見ることができない存在だからです。仏さまの教えはしばしば鏡にたとえられますが、教えを聴くと私のあるがままの姿が映し出され、そこに自らのありようが問われます。このように、私たちは仏さまの教えに耳を傾けることによって、ともすれば独善的なあり方に陥ってしまうわが身を振り返り、自らのあり方を問い、確かめながら保育を進めていくことができるようになるのです。子どもを一方的に育てるのではなく、子どもを育てる私が同時に保育者として成長していくというところに、まことの保育が「理念」として掲げる「共に育ち合う」具体的光景が見られます。

「信順」−おがみます−
 仏さまのみ教えを信じて、それにしたがうことを「信順」といいます。これを子ども達の行動面で具体的に表そうとすると「仏さまを拝む」ということになります。子ども達は園での「おまいり」の時間に、仏さまに合掌し「ナモアミダブツ」とお念仏を口に称え、礼拝します。たとえ合掌・礼拝の意味をすぐには理解できなくても、繰り返し仏さまを拝むことを通して、やがて無意識の内に「仏さまとは本当に尊い存在なのだ」という敬いの心が芽生えていくことと思われます。
 一般に、私たちは自分にとって何かしらの利益をもたらしてくれるものでなければ、なかなか頭を下げようとはしないものです。ところが、子ども達はお参りをする中で、仏さまに利益を期待したりなどしてはいません。何らかの利益をもたらしてくれる取引の相手としてではなく、尊い存在として仏さまに手を合わせ、念仏を称え、頭を下げています。また、讃歌を通して「見ていてね」「聞いててね」と元気よく口ずさみながら、あるいは「仏さまのお話をよく聞いていつも仲良く遊んでいます。いつでもどこでもそばにいて下さってありがとうございます。今日も元気に集まってみんなでお勤めいたします。」という奉讃文の言葉を通して、夜・昼いつでも自分を見守っていてくださる、とても身近な存在として仏さまを感じ、呼びかけています。
 聞くところによると、船を造る時に一番大切で同時に難しいことは、転覆しそうになった時に元に戻る力、いわゆる「復元力」をつくることだそうです。人間は、条件さえ揃えば何をしてしまうか分からない危うい存在です。そのような私達を「まことのいのちに目覚めさせずにはおかない」というのが、南無阿弥陀仏という仏さまの尊い願いです。この願いに目覚めると、たとえどんなに困難な状況に陥ったとしても、あるいは自分のあるべき姿を見失いかけたとしても、必ず仏さまが私の復元力となってはたらいて下さいます。その復元力を、子ども達は仏さまを拝むことを通して頂いていくのです。 
 今月は、子ども達が仏さまを身近に感じ、喜んでお参りに参加することが出来るような雰囲気作りから始めたいと思います。
「讃嘆」−たたえます

 仏さまを讃えるというのは、具体的にはどのようなことなのでしょうか。子どもたちの行動面では、先ず口に「ナモアミダブツ」と称え、身体で拝むことだといえます。この場合、讃えるということは「ほめる」ということと同じ意味ですから、子ども達の心に、いつも仏さまをほめるべき対象として意識付けすることから始めたいと思います。
 一般に、他をほめるということはいとも簡単なことのようですが、自己中心性の強い幼児期には、自然とそれを行うのはなかなか難しいようです。けれども、お参りの中で「ナモアミダブツと称えることは、仏さまをほめていることなんだよ」と、自分のしていることの意味を教え、更にそれがとても素晴らしいことなのだと、繰り返し話し聞かせていくと、やがて子どもたちの中に、他を認めそれ素直にほめることのできる豊かな心が少しずつ培われていくことが期待されます。
 このようなことを踏まえて、仏さまにお参りする時は、厳粛な雰囲気の中で、静かに心を落ち着けて、それがたとえ短い時間ではあっても、姿勢を正して敬いの気持ちを保ちながらお参りが出来るような環境作りを心がけていきたいものです。その繰り返しの中で、子ども達はやがて仏さまを尊い存在として意識し、心からほめることができるようになって行くことと思われます。
 仏さまは、私が願うに先立って、しかも願うと願わざるとにかかわらず、私たちを拝み「念仏せよ、救う」とよびかけていて下さいます。私たちが救いを求めるのは、いつも他人と比較して自分のあり方に不平不満を感じた時ですが、仏さまは「自分が、この自分の人生の主人公として生きて行くことに、誇りと勇気を持って生きていける私」に目覚めさせ、しかも悩み苦しみを抱えた私のことをそのままの姿で認めて下さいます。
 私が称えるナモアミダブツとは、仏さまが私の上に現れて、私をよんでいて下さる声なのです。私が仏さまをほめる、それがそのまま仏さまから喚ばれている事実と重なることの意義深さを味わいながら、子ども達と元気よくお念仏を称えたいと思います。

「歓喜」−つよくのびます−

 歓喜という言葉は、一般には「とても嬉しいこと」と説明されますが、親鸞さまはそれをさらに「歓は身体で感じるよろこび、喜は心で味わうよろこびのことです」と教えてくださいます。そうしますと、歓喜というのは「踊りあがるような喜び」を表す言葉であることが窺い知られます。
 ところで「仏の子」という言葉からは、どのような子どものすがたをイメージされるでしょうか。もし「温和な子」とか「おとなしい子」というような感覚で受け止めておられるのでしたら、それを「強い子」とか「たくましい子」に置き換えて下さい。ただし、ここで言う強さやたくましさとは、決して強情であるとか、乱暴なというような在り方を指しているのではなく、それらを濾過した、明朗で自律性を備えた子どもという肯定的な意味です。
 「まことの保育」では、子ども達一人ひとりの持ち味を認め、その子がその子のままで十分に自分の個性を発揮して、自らをあるがままに表現できるような環境を設定することで、一般には短所とみなされるような点も、やがて問題ではなくなるという保育原理に立っています。たとえば、渋柿の渋みが太陽光を受けて、やがて甘くなるのと似ています。よく見ると、どの子もみんなそれぞれが、それぞれの光をいだき、まばたきをしています。そして自分の光を見てくださいと、願っています。周りの大人がその光を見つめ、まばたきに応えると、子どもたちはキラキラした目をしながら、それぞれに自分の持っている光を放ってくれるものです。
 強く伸びるためには、しっかりとした地盤が必要です。高層ビルほど、耐震強度を増すために地下の基礎工事に力を入れるのは周知の通りです。近年は「他人に迷惑をかけなければ、何をしても良い」といった自己中心的な考え方が世間から厳しい批判を受けたり、学校教育の在り方が根本から何度も見直されたりしていますが、いつの世においても大切なことは、人間としての基礎が定まる幼児期においては、「人間としての基本的な生活習慣を正しく身につけること」だといえます。
 今月は、子ども達がいろいろ興味のあることに取り組む中で、達成感を味わうことを通して、強く明るい自律性を備えたたくましい子に育つような保育を心がけていきたいと思います。

「照育」−あおぎます−
 光を受けている草木は、力強く伸びています。反対に日陰にあるものは、いかにも弱々しい感じがします。まさに、直接太陽に当たっているかどうかで、その生長する様にはかなりの違いがあります。このことから、光は生きとし生けるものを育てる力の源であることが窺い知られます。同じように、人が育って行くためにも、やはり光が必要です。それは、太陽の光はもちろんですが、眼には見えない光、つまり心を育てる真実の光です。仏さまは、心の闇を晴らす尊い光で私たち一人ひとりを照らして、人間としての心を育ててくださいます。
 私たちの眼は「借光眼」といいます。周囲のことは何でも見えているようですが、光の力を借りないとものを見ることが出来ない眼なのです。ところが、日頃は太陽や電気の力を借りて周囲のものが見えているので、何でもその通りに見えていると思っているのですが、それは所詮錯覚でしかなく、いつも自分中心の見方にとらわれて、しかもそのことには気付き得ないでいます。そこで、子ども達を見る時にも、無意識の内に、自分が期待している標準よりも上か下かというような見方に陥って、子ども同士を比較したりしてしまうのです。
 けれども、子ども達の「持ち味(個性)」とは他者と測ったり比べたりするようなものではなく、そのままに一人ひとりを認めることが大切なのです。そうすると、子ども達は自分という存在を認められることでやる気を出し、自らの力で生き生きと歩き始めるようになります。
 子どもの個性を正しくとらえることの出来る眼は、測る世界を超えたところから生まれます。超越の世界、すなわち仏さまの世界からの光は、すべての子どもを照らし、その子なりの輝きを与えていきます。そして、仏さまのお育てによって、どの子もそれぞれの個性のままに輝きを増して行くのです。そのためには先ず周囲の大人が、子どもが伸び伸びと自分を表現できる場を与えて、何よりも辛抱強く待つことが大切だといえます。
 子ども達は園で仏さまのお話を聞いたり、動植物を育てる体験などを通して、いのちの不思議さに目覚めたり、育てることを通して自らも育てられていることに気付いていくようです。
 今月は仏さまの光に照らされて、共に育ち合えるような保育を目指したいと思います。
「反省」−かえりみます−
 私たちは、自分の顔が汚れていても、鏡を見なければそのどこが汚れているのかわかりません。また、暗闇の中では自分の影は映りません。光が当たって、初めて自分の影が見えるようになります。このように、鏡と光によって、私たちは自分の姿を知ることができるのです。
 日常、私たちは自分の悪かったことや欠点を棚に上げて、他人を責めたりすることがしばしばあります。一方、親切な忠告を受けてもなかなか素直に間違いを認めようとしなかったり、失敗の責任を誰かに転嫁したり、時には相手を恨んだりすることさえあります。他人の悪口は嘘でも面白いのですが、自分の悪口を言われると、たとえそれが本当のことでであっても腹が立つものです。また、他人の落ち度は簡単に指摘することが出来ても、自分自身を省みてその非を認めることは、なかなか容易なことではありません。
 ところで、私たちは謝罪をする時に「済みません」という言葉を口にします。これは、相手にお詫びをしたから、いけないことが帳消しになって「済み」になるのではなく、言葉で謝っただけでは済みにならないから「済みません」と言うのです。つまり「済みません」というのは、口先だけの謝罪ではなく、今後過ちを繰り返さないようにするために、心から深く自らを省みて、自分の行為や行動に対してどこまでも責任を持って対処していくという決意を表す言葉なのです。
 このような意味で、真の「反省」を子ども達に求めるのはなかなか難しいことですが、自分が間違えた時には「済みません」あるいは「ごめんなさい」という言葉を日常生活の中で素直な態度で、そして心をこめて自然と言えるように習慣化していくことは可能かと思われます。
 やがて、子ども達が自分を映し出す鏡を心の中に持つことが出来て、真の意味での「反省」が出来るようになる時、そこには他人の過ちを「いいえ、何でもないよ」と許せる、寛容な心も同時に育っているのではないでしょうか。
 今月は、子どもたち一人ひとりが他人に迷惑をかけた時には、自然と「反省」の言葉を口に出来るよう、日々の保育を進めていきたいと考えています。
「報謝」−はげみます−
 私たちは、他の人からものをもらったり、親切にしてもらったりした時には「有り難うございます」と、お礼の言葉をいいます。この「有り難う」という言葉は、それらのものや行為を頂くような自分ではないことを反省した中から湧き上がる感謝の気持ちを表したもので、それ故にまたお礼の言葉として「すみません」と言うこともしばしばあります。
 「報謝」という言葉は、単に人に対してだけお礼をするのではなく、あらゆるものに対して感謝の念を抱き、そのご恩に積極的に報いようとする姿勢と、そこから溢れ出る言動のすべてを含んでいます。したがって、そこには言葉を持っていない「もの」に対しても、まるで生きている人に向かっているかのように「ありがとう」や「すみません」という思いや、心を通わせ尊重して行こうとする態度が見られたりすることがあります。
 幼児期の子ども達には、草花や昆虫とか、小動物とおしゃべりをしている姿がよく見られます。これは大人になること、具体的には現実的な科学観を習得することと引き換えに、いつの間にか失くしてしまうことになる、原始感覚とでも言い表すべき美しい心性に基づくものですが、実はこのように自然と一体となるところから、あらゆる「もの」に対する感謝の心が湧いてくるのです。したがって、動物や植物と心を通い合わせたり、語り合うことの出来る心性を大切に育み定着させることは、幼児期における保育の重要な課題であるとさえ言えると思います。
 なぜなら、このようないのちに対する平等感覚は、後から教えられて身に付けるものではなく、人が生まれながらにして持っている感性だからです。
「おかげさま」と周囲の人やものに対して感謝して生きる毎日、そこにこそ明るい生活があり、「もの」にまで報いていこうとするところに、すべてのものを最高度に生かし、伸ばして行こうとする創造性も芽生えていくのではないでしょうか。
 今月は「生かされている私」であることに目覚め、そこから子と゜も達の中に「報謝」の心が美しく花開くような保育を目指したいと考えています。
「聞法」−よくききます−
 仏さまのみ教えを聞くことを「聞法」といいます。仏さまのみ教えの特色は、どこかの誰かのことではなく、この私自身を明らかにしていくという点にあります。そこで「聞法は、生涯をかけて私が受けなければならない人間教育である」とも言われるのですが、人間としての礎が築かれる乳・幼児期から既にこの聞法の機会を持ち得るということは、豊かな人間性を持つ人へと成長して行く過程において、とても貴重なご縁との出会いだと言えます。
 一般に「聞く」ということは、「話す」ことよりも簡単なことであるかのように思われがちです。けれども、よく考えてみると実はこれがなかなか難しいのです。なぜなら、話を聞いた後に、その聞いたことの内容を今度は自分の言葉にして述べたり、他の人に伝えることが出来なければ「聞いた」とは言い得ないからです。つまり「聞く」ということは、単に誰かの話す言葉が聞こえて来たということではなく、「聞いたことを理解する」ということなのです。例えば、話を聞いたといっても、その内容の真意を正しく理解して、自らの言葉で語ることが出来なければ、自分では聞いたつもりであったとしても、眠っていたり、全く話を聞いていなかった人と何ら変わりがないといわれても仕方がありません。自分の言葉で語り得ないという点では、その話を聞かなかった人と殆ど同じだからです。
 「耳は二つ、口は一つ」という言葉があります。当然のことを言っているだけに過ぎないのですが、日頃私たちは二つの耳を持って生まれていながら、つい一つの方の口を先に立てて、聞くことよりも自分の主張を押し通そうとしてしまうことがしばしばあります。おそらくこの言葉の意図は、よくよく他人の話に耳を傾けてからものを言うことの大切さを私たちに語りかけているのだと思われます。
 今月は、子ども達によく理解出来る言葉で、そしてくつろいだ雰囲気の中で、興味と関心のある物語やお話をすることを通して、「聞く」ということの大切さが自然と身につくよう、同時に子ども達の言葉に、そして声なき声にも耳を傾けながら、日々の保育を進めていきたいと思います。
「領解」−こころがけます−
 集団生活の中では、自分勝手な行動は周囲の人々に迷惑をかけてしまいます。そこで、集団においては、誰もが必ず守るべき「きまり」というものが設けられています。ところが、まだ自己中心性の強い幼児にとっては、ある程度自分の我がままが許される家庭と違い、いろいろなきまりを守ることを求められる集団での生活は、おそらく窮屈なことと感じられるかもしれません。けれども、きまりを破ると注意を受けたり、時には痛い思いをすることを通して、子ども達は自然ときまりを守ることの大切さと、忍耐の必要性とを学んでいきます。したがって、集団生活の中では、いろいろな「きまり」を守ることを通して、自分の我がままを抑えて行動できる自律性と、自身の欲望に打ち勝つ克己心が無理なく育まれていくようです。
情緒の安定した豊かな心は、相手の立場やみんなの立場に立ってものを考える余裕をもたらします。そしてそこには、自分のことだけではなく、常に他の人のことを思いやる協調性も芽生えていきます。 一般に「きまり」を守る場合、個人の意志の有無にかかわらず、強制的に守らせるものと、自分達でよく話し合って決めた上で自主的に守らせるものとの二通りがあります。社会生活を営む上では、もちろん両方とも大切なことですが、子ども達に「きまりとは、結局は自分達のためにあるのだ」ということを自然と理解できるように話して行きたいものです。
 自分の心の中に「きまり」を持つということは、自分の本当の姿を映し出す鏡を持つということだと言えます。犯罪の凶悪化や低年齢化が社会問題化していますが、それは「良いこと」・「良くないこと」を判別する「心の鏡」を持たないか、持ってはいてもその鏡が曇ったり磨くことを怠っているからなのではないでしょうか。きまりを教え、守らせることは、自律した人間を生み出して行きます。それが、人と人との間を生きる「人間」になって行くことの具体的中身だと言えます。
 今月は、きまりを心がけ、守ることを通して、子どもたちの心に美しい鏡が置かれ、苦しくても「守るべきことは守る」という強い心を育んでいけるよう、心がけたいと思います。
「精進」−つとめます−
 仏さまのみ教えにしたがい、正しいことに向かって根気よく努力することを「精進」といいます。物事への興味が次々と移っていく子ども達に、一つのことを集中して続けさせることはなかなか難しいものです。そこで、まだ注意力の散漫な子どもに対しては、興味や関心の向くような環境設定と、適切な助言とが必要になってきます。
 集中力を育むためには、まず先生と一緒、友だちと一緒という集団の中で、各人の年齢や持ち味に応じて、根気強く努力を続けられるような配慮を行うことが、効果的な方法であると考えられます。したがって、先ずはみんながしている良いことは、自分もするように働きかけたいものです。また、良いことは日課として、たとえそれがどんなにささいなことであっても、自分の務めとして実行し、やがてそれが習慣化していくような配慮をすることが大切です。
 おそらく、それを続けて行くことで、子ども達はひとつのことをやり遂げたという達成感を味わい、また次の何かに向かって自ら積極的に取り組もうとする、意欲を持つようになると思われるからです。そうしますと、そのことを実現していくためには、何よりも適正な評価をすることが必要です。なぜなら、幼児期における善悪の判断は、一般には「ほめられる」と「叱られる」の快・不快の感情から出発するからです。したがって、子ども達が何かある事柄について努めている時には、必ずほめて励ますようにしたいものです。子ども達にとって、自分のしている努力が周囲の人びとによって認められることはとても大きな喜びであると共に、その喜びが更なる継続のための力強いエネルギー源ともなっていくからです。
 ただし、ここで留意したいことは、ほめると言っても漠然とした理由のよくわからないようなほめ方では無意味だということです。子どもにとっては、いったい何をほめられているのか理解することが出来ないからです。ほめる時は、必ずどの点が良いのかを具体的にわかりやすくほめ、そのことを子どもと一緒に喜ぶようにしたいものです。
 今月は、たとえ困難に見えるようなことでも、それはごく小さな一見つまらないような身近な努力の積み重ねにより実現するということを、子ども達一人ひとりが身をもって体験出来きるよう、共に精進していきたいと思います。 
「報恩」−よろこびます−
 世の中の物事には、必ず原因があります。その原因にいろいろな条件が加わり、それらが相互に関係し合い、やがて結果が生じるのです。例えば、花という結果が導き出されるまでには、まず種という原因があり、土・水・光・養分といったような様々な条件が整うことが結果を生み出す必須の条件であることはよく知られています。このように、結果には必ず原因があり、その間には諸々の条件が関係し合うという真理を「因果の道理」といいます。
 さて、今この「恩」という文字を見てみますと、「因」と「心」という二つの文字から成り立っていることが知られます。これは、あるひとつの事柄を結果として見る場合、原因から結果が生じるさまを具体的に目にすることは出来なくても、それが成り立つまでの原因と結果に至る過程に心を寄せるようとする感情を言い当てた言葉だと言えるようです。
  では、このように目には明らかに見えない「恩」という感覚を、いったい子ども達にどのように教えればよいのでしょうか。それはなかなか難しいことですが、年間を通して行われる日常のお参りを始めとして、仏教行事を催す中で仏さまについての絵本や紙芝居を見せたり、お話をしたり、讃歌を歌わせたりすることを通して、自然と知らしめて行くことが出来ればと思います。
 子どもですから、すぐに理解するということは難しいでしょうが、さまざまな機会を通して、繰り返し仏さまのみ教えを聞くうちに、やがて「生かされている私」であることに目覚めると共に、多くのご恩を感じることの出来る心の豊かな人へと育って行くものと期待しています。
 また、食事の前後には必ず感謝の心を述べる「いただきます」「ごちそうさま」という言葉を一緒に唱和するようにしていますが、それらの言葉が今自分が頂いている「海の大地の無数の生きとし生けるいのち」に対する深い謝念の言葉であることを実感することが出来た時、きっと「恩」という言葉の感覚も心の奥深くに刻み込まれるのだと考えられます。
 今月は、お参りや毎日の様々な事柄をご縁として、ひとりでも多く「ご恩」を知る子どもに育っていくことを願いつつ、日々の保育を進めて行きたいと思います
「和合」−なかよくします−
 仏さまの教えによって結ばれやわらぎ親しみ合うことや、教えに集う人々が仲良くすることを「和合」といいます。一般の社会においても、仲良くしている人々の和を乱すことは慎むべきであることは言うまでもありませんが、仏教では教えに集う人々の和を故意に乱すような行いは、大変な罪悪であるとして厳しく戒められています。
 日頃、子ども達は園でのお参りの時に、仏さまに「おやくそく」をしています。その中の一つに『わたくしたちは みんな なかよくいたします』とあります。それが、ただ単に言葉だけに終わることなく、実際に行動に反映して行くような保育を心がけて行きたいと思います。
 具体的には、日常の保育の中で友達と一緒に遊ぶことの楽しさを味わわせることを通して仲間意識を持たせたり、相手やみんなの立場にたってものを考える機会を与えることを大切にしたいと思います。またその一方、自己中心的な振る舞いがいかに他の人に迷惑をかけるかということに気付かせると共に、それがやがて他の人を思いやる心へと発展して行くように導いて行くことが出来ればと考えています。
 集団での生活であることから、しばしばおこる子どもの「けんか」は、殊更に奨励すべきものではありませんが、一概に否定すべきものでもないと思います。なぜなら、まだ自己の欲求を上手くコントロールすることの難しい子ども達が、お互いの欲求をぶつけ合って、それを「けんか」という形で解決しようとすることは至極当然のことだからです。そして、そのような体験を経て、周囲の人々の助言を得ながら次第にそれぞれの年齢に応じた解決策を自分自身の頭で考え、発見して行くようになるからです。このような意味で、「けんか」は自然な成長の一過程とでも言うべきものであり、一人でものを考えるまたとない良い機会だともいえます。
 今月は、「自分がされたくないことは友達にしない」ということを話して聞かせたり、もし「けんか」の場面に遭遇した時には、仲裁者というよりも助言者という形で関わることにしたいと思います。そして、次から同じケースではどうしたら仲良く出来るのかということを子ども達と一緒に考えたり、「仲良くすることの大切さ」を繰り返し伝えていきたいです。
「奉仕」−てつだいます−
 『雑宝蔵経』という経典の中に、「その意志さえあれば誰にでも出来るりっぱな施し方」が七通りあるということが説かれています。これは、お金の有無にかかわらず誰でも成し得る尊い行いであることから「無財の七施」と言われ、次の七つの行為が示されています。
 『・あたたかい慈愛のまなざし、・うるわしい微笑みをたたえた柔らかな顔、・思いやりのこもったやさしい言葉、・相手の人格を尊重し自ら進んで行う態度、・相手の立場にたって考える心、・思慮深く相手を安定させる気持ち、・自分の持てる技術を他人に喜んで提供する態度』
 これらの心を子ども達の生活の中に求めると、それは「おてつだいの心」になります。一般に、幼児の「おてつだい」は受ける側にとって、労力の手助けとはならないことが多く、かえって邪魔になることさえあったります。しかし、大人の仕事を幼児が少しでも体験するということは、社会性を広げるという意味においてとても貴重なことです。またそれ以上に、子ども達が自分以外の対社会的なことに参加し、その一員となって積極的に他に貢献しようとする意欲は、大切に育み伸ばしていきたいものです。 本来「おてつだい」とは、見返りを期待しない「無償」の行為のことです。また、子ども達にとってそれは、興味のある遊びの一つであると共に、他人から信頼され、一人前として認められたことに喜びを感じる、またとない良い機会だといえます。ですから、もし子ども達が自らおてつだいすることを申し出た時には、たとえ少しくらい時間がかかったとしても、出来るようなことであれば務めさせ、もし無理な時にはその思いを認めるようにするなど、いずれの場合でもその心持ちをほめるようにしたいものです。 そして、見返りを求めないおてつだいは、他者の苦悩を自らのものと引き受け、他者の喜びを自らの喜びとして、悲しみも喜びも共にしてはたらかれる、尊い仏さまの道を歩いているのと等しいことなのだと、ほめ讃えるようにしましょう。
 今月は「他の人に迷惑をかけない」ということからさらにもう一歩踏み出して、「他の人のために、自分は何が出来るか?」ということを子ども達と一緒に考えて行きたいと思います。