まことの保育 Q&A
 


①仏さまにお参りする時には、なぜお念珠(数珠)を手にかけるのでしょうか。

 浄土真宗では、「念珠(ねんじゅ)」と呼んでいますが、一般には「数珠(じゅず)」と言われることが多く、私たちが仏さまにお参りする時に使う法具と呼ばれるものの一つです。「念珠」という名前は「南無阿弥陀仏」と仏さまを念じながら称える時に用いることから、「数珠」という名前は、何回称えたかという回数を計算するために使うことからきていると言われます。
 発祥は古代インドで、礼拝の道具として古い歴史を持っています。始まりについては諸説ありますが、『木槵子経(もくげんじきょう)』には、『難陀国(なんだこく)の毘琉璃王(びるりおう)が「政治をとりつつ仏の道を修行していきたいと思いますが、どうすればよいでしょうか」と、お釈迦さまに尋ねたところ、「木槵子(むくろじ)の実百八個を通して環を作り、これを常に身体からはなさず、心から仏・法・僧の三宝を念じて一つずつ繰っていきなさい。一つずつ爪繰(つまぐ)れば、おのずから心は静まり、煩いをのぞき、正しきに向い、間違いのない政治をすることが出来るでしょう。」と説かれ、一つの数珠を授けられました。そこで早速、王は木子の実で千連の数珠をつくり、家族や親族、家来達に分け与えました。常に数珠を手にして三宝の功徳を念じたところ、国の治安は次第に安定し、王自身、仏道を成ずることができた』と、説かれています。
 木槵子とは、中国が原産地のムクロジ科の落葉樹です。高さが十メートルにも及ぶ高い木で、その実が数珠として用いられます。百八という実の数は、除夜の鐘を百八回撞くことでよく知られていますが、これは「百八の煩悩」といわれるように、人間の欲望や悩みを象徴するものです。そこで、仏道修行をする際に、百八の煩悩を消し去ることを願いとして数珠を手に持ち、その功徳で極楽往生を願うということが行われてきました。
 ただし、浄土真宗では念仏の称え方や称えた数を問題にはしないので、そのような用い方はしません。けれども、お釈迦さまの時代から、仏教徒にあっては伝統ある法具として伝え用いられてきたものですから、浄土真宗でも大切に扱うように教えられてきました。本願寺第八世蓮如上人はお手紙の中で、「念珠を持たずに、仏さまを礼拝することは、仏さまを手づかみにするようなものだ」と、注意しておられます。このことから、仏さまにお参りする時、お念珠を手にするのは、仏さまに対する敬いの心をあらわすためだと理解されると良いのではないでしょうか。
 子どもたちには、お念珠は仏さまにお参りする時の大切な法具であり、決しておもちゃにしたり乱暴に取り扱ったりしないように、また床や畳の上に直接置くなど粗末にしないことを教え、大事にするような意識付けをして頂きたいものです。

② 花、ローソク、香をお供えするお荘厳の意味を教えてください。

 お荘厳(しょうごん)とは、サンスクリット語で「 見事に配置されていること」という意味で、お寺の本堂や家庭の仏壇のお飾りのことです。仏前に花・ローソク・香などをお飾りするのは、仏さまが私に振り向けてくださっている尊いお心を深く味わうためのです。 
 先ず花ですが、花は多くの人びとに愛されると同時に、私たちの生活に潤いをもたらしてくれます。また、慶びごとには華やかさを添え、悲しみごとには心を癒し慰める役割を果たします。そのため、敬愛、感謝、忘憂、慰撫などの象徴ともなり、慶弔をはじめ生活の様々な場面で用いられます
いま、私たちが仏さまに花を供えるのは、仏さまの徳を讃え、そのご恩に感謝する気持ちを表すためです。つまり、花を供えることで、仏さまに対する敬いの心を表しているのです。
 なお、ここで理解しておいて頂きたいのは、この行為にはもう一つ大切な意味があるということです。それは、仏花がお供えをした仏さまではなく、お参りしている私たちの方を向いているという理由です。これは、短い一生であるにもかかわらず、そのいのちを輝かせてせいいっぱい咲いている花の姿を通して、すべてのいのちを生かし育んでくださる仏さまの慈悲の心を味わうためです。また、経典には「お浄土は美しい花に包まれた世界である」とも説かれています。このことから、仏花によって、仏国土の美しさと、仏さまの慈悲のお心をしのばせていただきたいものです。
 次はローソクですが、ローソクの火からは、二つの意味を味わうことが出来ます。
 一つは「光」です。仏教では、私たちの迷いの心を「無明」といい、闇で表します。闇を破るものは光ですから、私たちの迷いの闇を破る仏さまの「智慧」をローソクの光で象徴的に表しているのです。迷いと不安に満ちた私たちの心の奥の深くまで見通し、迷いの闇を照らして真実に向かわせてくださる仏さまの智慧を、ローソクの光を通して味わいたいものです。
 もう一つは「熱」です。熱はどのように厚い氷でも溶かしていきます。決して私たちを「見捨てない」という仏さまの「慈悲」の温もりをローソクの熱で象徴的に味わうことが出来ます。迷いに閉ざされた私の心を、諦めることなくときほぐしてくださる仏さまの慈悲を、ローソクの熱を通して味わいたいものです。これらのことから、ローソクは仏さまの智慧と慈悲を讃えるために灯しているのだと言えます。
 最後は、香です。香は、体臭などの悪臭を除き、心身共に落ち着かせてくれるところから、仏前にお供えすることが早くから行われていました。浄土真宗では、香を供えることを「供香」といいます。この供香には、法要や勤行に先立ってあらかじめ仏前に香を薫じておく「燃香」と、法要や儀式に際して特に仏前に進み出て火中に香を薫じる「焼香」との2種類があります。お香は目にも見えず手につかむこともできませんが、分け隔てなく隅々まで行き渡りすべてを包み込みます。このことから、すべてに等しく注いでくださる仏さまのお慈悲をあらわすものといわれます。香からは、仏さまの平等な慈悲の心を味わっていただきたいものです。

③ 「保育信条」に「仏の子を育てます」とあります。それはどのようなことですか。

 先ず「仏の子」とは、どのような子どものことなのでしょうか。親鸞聖人が著された『教行信証』(「行巻」)の中に「迷える凡夫がいかにして仏法を喜ぶことができるか」ということを問題にされる箇所があります。そこに述べられている「転輪王の譬え」を読むと、「仏の子」とはどのような子なのか、推し量ることが出来るように思われます。
 転輪王というのは、輪宝をまわして全世界を従え、正法をもって統治するといわれるインドの神話的な理想の君主です。この「転輪王の功徳をその通りに念じることができるのは、転輪王の王子のみだ」ということが説かれています。それは、転輪王の王子は転輪王になる素質をもっているからで、そのため王子は転輪王の功徳のすべてを念ずることができるのだといわれます。したがって、仮に他の者がどれほど転輪王の王子らしく振る舞ったとしても、正しく転輪王を念ずることはできないので、その者は王子ではないということが明らかになります。転輪王と転輪王の王子とはこのように、正しく転輪王の功徳をその通り念ずることが出来るという関係で繋がっているのです。親鸞聖人はこの「転輪王の譬え」をもって、同じことが仏さまと仏の子との間でも言えることを示されます。つまり「仏さまを正しく念ずることができるものは、仏の子だ」と言われるのです。そうすると、私たちが今こうして「南無阿弥陀仏」と念仏することができているのは、まさに私が仏の子であることの何よりの証拠だと言えます。
 親鸞聖人は、私が口に南無阿弥陀仏を称えることを「大行」と言われるのですが、私が仏になることを求めて念仏する行為を「大行」とは言われません。「大行」の「大」とは、仏や菩薩が私たちに向って働く大いなる慈悲のことです。したがって、実は念仏というのは本来私が仏さまを念じることではなく、根源的に仏さまによって私が念じられていることなのです。それは、仏や菩薩によって念じられているが故に、私は仏の子になるのだということです。つまり、私が仏を念じることによって仏の子になるのではなく、私が仏に念じられることによって仏の子になることができるのです。
 ここで保育の現場に目を向けると、子どもたちは仏参の中で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、念仏を称えています。この念仏を称えるということは、まさに南無阿弥陀仏の功徳をその通りに念じることですから、その子どもたちは「仏の子」だと言うことができます。もしかすると、先生方の中には「子どもたちはたまたま、まことの保育の園に通うことになったから、お念仏を口に称えているのでは…」と、思われる方も少なからずいらっしゃるかもしれません。けれども、それはきっと、私たちの迷いの目には見えない、深い縁の不思議な出遇いによって実現している、尊い事実に相違ありません。親鸞聖人は「このお念仏の教えに出遇うことができたのは、深い縁があってのことと喜びなさい」と、著述の中で述べておられます。
 そうしますと、子どもたちだけではなく、何よりもこの私自身もまた「まことの保育」の園に勤務するご縁があったからこそ、今こうして尊いお念仏を称える身になることが出来ていることに心を寄せ、子どもたちと共に互いにお念仏を称える身になれたこと、言い換えると、私もまた仏の子となれたことを喜び合って頂きたいものです。

 「いのちを大切にしましょう!」と言いながら、いつも魚や牛・豚・鶏などの多くのいのちを食べています。「まことの保育」に照らして、私どもはそのことを子どもにどのようにお話をしていけばよいのでしょうか。

経典には「すべての生きものは自らのいのちを愛して生きている」と説かれています。決して、人間だけが自らのいのちを愛し、惜しんでいるのではありません。そうであるにもかかわらず、日々の生活の中で、私たちは多くのいのちを殺して食べて生きています。そうすると、私たちには頂いた多くのいのちを無駄にしない生き方が、そのいのちによって常に願われていると言えるのではないでしょうか。
 
世の中には、他に食べられるために生まれてきたいのちなどありません。どのようないのちであっても、「生きたい」という意欲を持ち、「生きよう」として在るのがいのちです。たとえどれほど小さないのちであっても、そのいのちの重さは等しく、どのようないのちであっても、そのいのちはそのものにとっては、唯一でかけがえのない大切なものです。けれども、自分が生きるためには、好むと好まざるとに関わらず、他の生きもののいのちを奪わなくては生きてはいけないのがこの身の事実です。それは、自らが生きていくためには、他のいのちを奪わなければ、自らのいのちが息絶えてしまうからです。
 この事実を踏まえて、私たちは食前に
 多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
 深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
と、いのちへの深い感謝の言葉を口にし、食後には
 尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
 おかげで、ごちそうさまでした。
と、食事を終える度ごとに、いただいたいのちを無駄にしない生き方をすることを自らに誓うようにしているのです。
 このような意味で、子どもたちには、食事の際に「いのちをいただいている」ということを自覚できような語りかけをすると共に、そのいのちを無駄にしない生き方とはどのようなことかをていねいに教えていただきたいと思います。
 それは具体的には、自分のいのちが多くのいのちに願われていること、また同じように、周りの友達のいのちも多くのいのちに願われて生きていることを教えるということです。そして、自分のいのちが大切であれば、同じように友達のいのちも大切にすること。言い換えると、お互いを敬い愛し合い、決していじめたり差別したりしてはいけないということを繰り返し語りかけ、そのことを心の奥深くにまで刻み込んで頂きたいと思います。そのためには、何よりも先ず先生ご自身が、食前・食後の言葉を、実感を持って自然と口に出来るようになることが大切であることは、言うまでもありません。

⑤「まことの保育」を毎日言葉にしながら、私自身は信仰があるとは言えません。それでも、子どもたちと一緒にお勤めしたり讃歌を歌ったりしてもよいのでしょうか。

 もしかすると、大半の園においては、仏前でのお勤めをしたり、仏教讃歌を歌ったりすることは「分かりきったこと」として、既に了解済みのことになっているかもしれません。けれども、信仰のないままに仏参をしたり讃歌を歌うことの是非について自らを問うことは、まことの保育の園に勤務されている先生方にとって、とても大切なことだと思います。
 経典の伝えるところによれば、お釈迦さまにはたくさんのお弟子がおられましたが、その中の一人に、深遠な教理をなかなか理解することが出来ず、自らの愚かさを悲嘆して、その悩みをお釈迦さまに相談した人がいました。
 お釈迦さまは、そのお弟子に「自分が愚かであることに気づいている人は、智慧ある人です。愚かであるのに自分は賢いと思っている人こそ、本当の愚か者です。」と諭され、1本のほうきを渡されました。そして、掃除をしながら「塵を払わん、垢を除かん」と、唱えなさいと教えられました。それ以来、そのお弟子は、来る日も来る日もお釈迦さまに教えられたその言葉を繰り返し唱え続けました。そして、何年か経った頃、その「塵を払わん、垢を除かん」という言葉は、そのお弟子の身体全体にしみ込んでいきました。やがて、そのお弟子はいつからともなく、「いったい塵とは何だろう。垢とはなんだろう」と心に問い続けるようになり、ただひたすらそのこと一つを考え続けるようになりました。そして、ついにそれは自分の心の塵のことであり、心の垢であることを自覚すると共に、それらを自ら離れ捨てられるようになりました。
 このお弟子は、いつとはなしに心に積もってしまう塵とは、自分の経験したことのみを絶対的なこととして誇る自負心や驕慢心のことであり、どこからともなくにじみ出てきて肌を覆ってしまう垢とは、自分の行動や考え方について執着する心であることを悟り、それを浄らかにすることに努めたそうです。
 思うに、まことの保育の園に勤めた当初から、篤い信仰心を持って仏参のお勤めをしたり、その意味を深く理解して讃歌を歌っておられる先生は、ほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。それどころか、むしろ「あまり信仰心はない」という先生が大半を占めているのではないかと思われます。だからこそ、このような「問いの心」を持つことが大切なのです。
 今後は、この「問いの心」をもって、まことの保育の研修会やお寺での法座に積極的に足を運んだり、『保育資料』などに目を通したりして、仏さまのみ教えについて学びを深めてください。なぜなら、そのようなあり方の中でこそ、やがて仏参や讃歌の意味などに少しずつ頷けるようになるからです。
これからも、このような「問いの心」を持ち続けることを大切にして保育にも取り組んで頂きたいと思います。

⑥ 乳幼児支援の必要性の中に「自己肯定感の獲得」という言葉がありますが「まことの保育」ではどのように受け止めればよいでしょうか。

 「自己肯定感」という言葉は、一般にはそれが「ある」というような積極的意味合いで使われるよりも、何か問題が起きた場合、むしろそれが壊れたり乏しかったりするというように、それが「ない」ことがいろいろな状況下でマイナス面にはたらくというかたちで、しばしば取り上げられているように窺えます。そのため、この言葉を文字の表面から「自分で自分を肯定すること」「今のままの自分でよいと思うこと」「自分らしくあって良いという感覚」と定義付けて理解しようとしても、何となくよく分からない感じがするのではないでしょうか。
 そこで、反対の「自己否定感」とはいったいどのようなことかと考えてみると、「自分は必要とされていないと思うこと」「自分は何をやってもダメな人間だと思うこと」というようなことが見えてきます。私たちの人生は順風満帆の日ばかりではありませんから、時にはこのようなマイナス感覚に陥ることもありますが、大半の人においてそれは殆ど一時的なものです。けれども、自己否定感の強い人は、持続的にこういった感情や感覚に沈んでいるように見受けられます。
 そうすると、「自己肯定感」とは、いつも自分を肯定的に見ることができる感覚ではなく、失敗や挫折などに直面して何度落ち込んだとしても、常にそこから立ちあがり前を向いて生きていこうとする力のことだと言えます。なお、これは「いつでも自分は正しい」というような、いわゆる「我を張る」といったような自己中心的なあり方ではなく、どんなことに遭遇しても決して自分のあるべき姿を見失わない、自分の人生を諦めないという信念のことだと言えます。
 このような意味で、「自己肯定感」というのは、常に自らの中で意識されているというより、自分がマイナス感覚に陥りかけた時、挫折してそのまま沈み込んでしまうのではなく、そこから立ちあがって再び歩きだすことのできる、目に見えない前向きの力が自身の中で働いていると自覚できる感性を言い当てようとしている言葉だと思われます。
 したがって、この言葉を文字の表面だけで「自分で自分を肯定すること」「あるがままの自分で良いのだと思うこと」などと、短絡的に理解してしまうと、単なる現状肯定のあり方にとどまってしまうことになりかねません。特に、子どもは成長の過程にあるのですから、「今のままでよい」などということはないのです。なぜなら、それぞれに多くの可能性を秘めているのですから。
 では、まことの保育ではこの「自己肯定感の獲得」ということをどのように受け止めればよいのでしょうか。人間は、自分一人だけでは生きてゆけない存在です。そのため、向上心とか克己心だけでは困難な状況を乗り越えてゆくことは極めて難しいものです。けれども、どのような人生であったとしても、この私の存在を周囲の人から認めてもらえると生きる勇気がわいてきます。その一方、「誰も自分のことを分かってくれない」と思ったとき、人は生きる希望をなくしてしまいます。
 そうすると、まことの保育における「自己肯定感の獲得」とは、自分は「いつでも どこでも そばにいてくださる」阿弥陀さまの光の中を生きる存在であることを実感すると共に、そのことによって、たとえどんなことが起きても、自らの人生の主人公は自分であることに誇りを持ち、すべての事柄を引き受けて行く勇気と、自分を諦めない信念を身につけて行くことだと言えます。

⑦ 阿弥陀さまとお釈迦さまと親鸞さまの関係を、子どもにどのようにお話すればよいのでしょうか。

 仏教とは「仏になる教え」で、「仏」というのは「仏陀(目覚めた人、この世の真理を悟った人」という意味です。お釈迦さまが悟られた真理を仏教では「法(ダルマ)」といます。お釈迦さまは、自身がこの地球上に出現されようがされまいが、この真理は永遠に変わることのない道理であると説いておられます。例えば、ニュートンは木からリンゴが落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したと伝えられていますが、リンゴはニュートンがこの法則を発見する以前から木の下に落ちていました。決して、ニュートンが法則を発見したことによって、初めてリンゴは木から下に向って落ちるようになったのではありません。お釈迦さまが悟られた法(真理)も、それと同じように永遠普遍の道理なのです。
 仏教では、真理を「如」という言葉でも言い表しているのですが、お釈迦さまがこの「如」より私たちを迷いから救うために来る真実のはたらきがあることを悟られ、名付けて「阿弥陀」といわれました。「阿弥陀」の「阿」とは打ち消しの意味で、「弥陀」は「量る」という意味です。では、「阿弥陀」とはいったい何を量ることが出来ないのかというと、いのちとひかりです。いのちは時間、ひかりは空間を意味します。また「如から来る」ということで「如来」といいます。したがって、阿弥陀如来とは「全ての時間と空間をおおいつくして無限に輝いている如来」という意味になります。
 ところで、なぜお釈迦さまは阿弥陀さまの教えを説かれたのでしょうか。それは、お釈迦さまに直接会えない後の世の人のために、いつの時代にあってもどのような人であっても、必ず仏になれる教えを説いておられる仏さまが阿弥陀さまだからです。そこで浄土真宗では、阿弥陀さまを、私たちを迷いの闇から救ってくださる「救主」、お釈迦さまを、阿弥陀さまの真実のみ教えを説き明かしてくださった「教主」と位置付け、それぞれに深く感謝し讃嘆しています。
 また、お釈迦さまは35歳で仏陀となられてから80歳で亡くなられるまで、多くの人びとに教えを説かれました。その際、常に相手の苦しみや悩み、能力に応じて自在に教えを説いていかれました。そのため、仏教には八万四千の法門と言われるほど多くの教えがあります。そうすると、教えは素晴らしくても私の能力が釣り合っていなければ悟りに至ることはできません。ところが、凡夫といわれる私たちには、いったいどの教えが自分を正しく仏の悟り導いてくれるのか見極めることは困難です。そこで、たくさんの教えの中から、いつの時代であっても、どのような人であっても、その教えを聞信したすべての人が、無条件に、そして一人の例外もなく仏陀の悟りに至る教えを明らかにしてくださったのが親鸞聖人です。 
 そうすると、この三者の関係性は、私の称える「南無阿弥陀仏」の声となって「あなたのいのちの帰ってくるのはここだよ」と喚びかけ、常に私たちを見守り導いて下さる仏さまが阿弥陀さま。「阿弥陀さまの喚びかけを信じ、その通り進んでいきなさい」と、私の背中を押して下さる仏さまがお釈迦さま。阿弥陀さまの喚びかけを聞いて信じ、お釈迦さまの後押しを受けて仏さまとなられた、つまり私たちの前を歩き、その生き方を通して私たちを真実へと導いていてくださるのが親鸞さまだと言えます。

⑧ 阿弥陀さまは、「常に私のためにはたらいておられる」と聞いていますが、どのようにはたらいてくださっているのでしょうか。
 
 親鸞聖人は、阿弥陀さまという仏さまは、本来「色もなく形もなく、言葉で言い表すことも想像することもできない」と説いておられます。それは、「凡夫」と言われるような、迷いの存在である私たちの迷いに染まった者には、認識や理解することは出来ないということです。

 ところが、私たちは子どもの頃から誰もが科学的な物の見方や考え方を教育によって無意識の内に刷り込まれています。そのために、自分で見たり触れたりすることの出来ないもの、つまり実感できないものは「存在しない」とか「信じない」という立場をとってしまいます。
 けれども、私に分からない、見えないからといって、全てを否定することは果たして正しいあり方なのでしょうか。例えば、地球は毎日自転しているのですが、そのことが「分かりますか」と言われると、どう見ても私たちの眼には太陽や月、多くの星が動いているようにしか見えないので、自転していることは分かりません。また、晴れた日の夜には星は見えますが、昼には星は見えません。では、地球は自ら回っていないのか、昼間に星は出ていないのかというと、地球は常に回転していますし、昼と夜とに関わらず星も出ているのです。単に「私には分からない」というだけのことです。
 ところで、阿弥陀さまは別の呼び方で「不可思議光如来」とも言われます。「不可」は「べからず」、「思議」は「思いはかる」ということですから、「不可思議」というのは、「思いはかるべからず」ということになります。これはどのようなことかと言うと「凡夫の私には、分からないということを理解(自覚)せよ」という意味です。これを地球の自転のことに重ねると、「地球が自転していることを実感しなさい。分からないと救われない」などと言われると、私たちは途方に暮れるような気がしますが、「地球は自転しているが、あなたには分からないということを自覚しなさい」と言われると、「地球は自転していても、そのことを自分には実感できない」ことは、すぐに頷くことができます。
 このように、私の方から理解しようとすると、阿弥陀さまは見ることも、知ることもできません。そこで、阿弥陀さまはそのような私たちのために、自分の方から「南無阿弥陀仏」という言葉となって、私の方に働きかけてきて下さっているのです。では、なぜ自らの存在を伝えようとする手段が「南無阿弥陀仏」という名前なのでしょうか。それは、相手に自身の全てを伝える唯一最高の手段が「名前」に他ならないからで、すべての功徳を「南無阿弥陀仏」の中に成就して振り向けてくださるのです。
 「幼児のおつとめ」の「奉讃文」の中に「みほとけさま いつでもどこでも そばにいてくださって ありがとうございます」とあるように、阿弥陀さまは、私が「南無阿弥陀仏」と称える、その一声、一声の中に、いつでもどこでもはたらいてくださる仏さまです。

⑨「まことの保育はどのような保育ですか。」と問われる保護者に、どのように分かりやすく答えればよいのでしょうか。

「保育」とは、その文字の成り立ちを見ると「保育」の「保」は「人(にんべん)⇒人を表す」と「呆⇒子どもを表す」から出来上がっています。これは「人が赤ちゃんを背中に背負っている姿を表している」のだそうです。つまり「自分のいのちと子どものいのちとがくくり付けられている」という意味ですが、それは「背中の子どものいのちが、私のいのちと一体となること」を物語っています。このことから、「保育」とは「子どもが成長していくことと自分がその子どもと関わっていくということが一つになる」というような教育のあり方であることが知られます。
 次に「教育」の意味について窺うと、教育とは父母の手元を離れて他人と共同に生活するようになる時から始まるものだと言えます。なぜなら、教育とはやがて独立した人格を持った社会的存在として生きる「人間」になるために必要なものだからです。そのような意味において、その第一歩は親元を離れて、他人との共同生活に入るというところから始まるのだと言えます。一般には、「家庭教育」ということも言われますが、厳密に言えば家庭は教育の場ではなく「躾(しつけ)」をするところです。それは、「しつけ」とは「身」と「美」という文字が組み合わされて成り立っていることから推し量ることができるように「身を美しくすること」、つまり極めて内面的かつ具体的な生活の全体について求められることです。したがって、家庭こそが「躾の場」なのです。一方、社会生活者となるということは、親元を離れて他人と共同生活する場を持つことであり、まさに「人間」となるような関係性を生きる人となるということで、その関係性を初めて学ぶのが幼児教育の場だと言えます。
 これらの言葉の意味を踏まえて知られるのは、乳幼児期における教育というのは、子どもたちが初めて経験する社会生活の中で「人間」となるような関係性を育んでいくことであり、保育というのはその教育を行う保育者と子どもが一体となって成長して行くようなあり方を言い表したものだということです。
では、まことの保育」とはどのような保育かというと、決して何か特別な保育のあり方を新たに創り出したということではありません。お釈迦さまが真理を悟られたように、「人を真の意味での人間としていく幼児教育本来のあり方」を「まことの保育」と呼んでいるのだと言えます。それは、言葉を換えて言い表すと、「生かされているいのちに目覚め、周囲の人びとを敬愛しながら生きていく、心豊かな人間を生み出す保育」だと言うことができます。だからこそ、この保育に出遇った子ども達は、いつでもどこでもそばにいてくださる仏さまを身近に感じ、たとえ苦しいことや辛いことがあっても、何度でも立ち上がる勇気と、決して自分を諦めない信念を持つ人へと育っていくのだといえます。そのことを実現するためには、保育者の一人ひとりが人的環境であることに留意して頂きたいと思います。

 日本の伝統的な行事(節分、七夕、地域の祭り等)と、まことの保育の中での行事との意味や願いとの相違を問われるとき、どのようにお話すればよいでしょうか。
 
 日本には多くの伝統的な行事があります。これらの行事の由来を調べてみると、中国から伝わったものや日本古来のものなど起源は様々で、受け止められ方も時代と共にいろいろと変化しているようです。そして、これら伝統的な行事は、概ね一年の無病息災を神仏に願ったり、豊作や豊漁を祖霊に祈ったりすることがその目的となっています。一方、まことの保育の中で催される行事で、特徴的なものは、お釈迦さまに関連したの「花まつり(灌仏会)」「成道会」「涅槃会」、親鸞聖人に関連した「降誕会」「報恩講」など、いわゆる「仏教行事」といわれているものです。
 では、日本の伝統的な行事とまことの保育の中での(仏教)行事との相違点はどこにあるかというと、前者は自分の希望がこれからかなうことや自分が不幸に陥らないことなどを願って祈るものであり、後者は自分が今既に真実の教えに出遇えたことを喜ぶと共に、その教えを明らかにしてくださったお釈迦さまや親鸞さまに対して感謝の思いを表すもので、ここに両者の決定的な違いを見ることが出来ます。
 ところで、私たちは、日頃自分たちのしていることを振り返ると、そこには大きく分けて「しなければならないこと」と「せずにはおれないこと」の二通りのあり方があるように思われます。例えば、日々保育をしていく上では、保育指導計画の作成、保育日誌をはじめとする諸記録等の記述、保育室の掃除、子どもの世話…、それこそ「しなければならないこと」が山積しています。そして、その「しなければならないこと」をいかに着実に、効率よく成し遂げていくかということが保育者にはいつも要求されていますし、それを抜きにしてはとうてい日々の保育は成り立たないとさえ言えます。
 けれどもそこで大事なことは、その底の部分に「せずにはおれないこと」をきちんと見いだしているかどうかということです。特に、運動会や遊戯会など大きな行事を行う場合など、そこに先生方が「せずにはおれない」もの見いだしておられなければ、言い換えると「しなければならないこと」として単に恒例行事として実施することに重きを置いた時には、子どもたちはその行事を「たださせられている」だけになってしまうことになりかねません。
 そうすると、日本の伝統的な行事や地域の祭り等はもちろん、仏教行事についても「しなければならない」からするのか、あるいはそこに「せずにはおれないもの」を保育者自身がきちんと見いだしているかどうかということが、何よりも大切になってきます。
 園によっては「節分」や「七夕」など伝統行事の中に新たな意味、具体的には、「節分」は「鬼とは心の中にある悪い心、福とは善い心」という説明をした上で行ったり、「七夕」は短冊にお願いごとを書くのではなく、自分の将来の目標や希望を書くようにして、伝統行事を積極的に実施しておられる園もあったりするようです。
 したがって、そこに「せずにはおれないもの」を見出せない時には、あえてする必要のない行事もあるのではないでしょうか。例えば、ハロウィンやクリスマスのように…。

「まことの保育」とは、「心を育てる保育のことだ」と言われますが、それはどのような保育のあり方なのですか。

 「心が育つ」というのは、いったいどのようなことなのでしょうか。一言で言うと、それは「人間が育つ」ということに他なりません。一般には、多くの知識を獲得すれば、それで人間が育つかのように思われていますが、人間以上に膨大な知識を蓄積したコンピューターは、人間かというとそうではありません。なぜなら、たとえどれほど人工知能がプログラムされていたとしても、コンピューターには「心」がないからです。
 では「人間が育つ」ということは、いったいどのようなことなのでしょうか。「常識」という言葉があります。この言葉の原語は「コモン センス」です。「センス」というのは「微妙な味わいや意味を感じ取る力、感覚」のことで、「普通一般の人間が持っているべき共通感覚」という意味です。現代は「知識基盤社会」と言われ、知識を増やすことに重きが置かれていますが、「人間として育つ」ためには、単に知識を詰め込み増やすことだけに満足するのではなく、その得た知識をどのように用いるかということが大切なのです。つまり「良識」とも訳される「普通一般の人間が持っているべき共通感覚」、いわゆる「常識」が不可欠なのです。このような意味で、人間を育てる上で何よりも大切なことは「人間としてどのような感覚を身につけさせるか」ということに重きを置くことだと思われます。
 
さて、「心を育てる」ために、保育者は子どもたちにどのように関わって行けばよいのでしょうか。周知の通り、保育の原点とは、子どもの心の声を聞き漏らすことなく、その心の美しさを引き出し、音楽・絵画・制作・運動など、子どもの持つ様々な可能性を映し出すまでに、絶えず自分自身の心を磨き続けることです。その場合、私たちの視点は子どもの方にだけ向いてしまいがちなものですが、子どもたちを映し出そうとしている自分の心には、実は大きな問題点があるということを忘れてはならないと思います。それはどのようなことかと言うと、私たちは自分の目に見える光景だけで判断して、子どもの姿をあるがままに自らの心に映し出しているつもりでいても、そこにはいつも「自分の思い」というものが重なって見てしまっているということです。
  「仏さまの教えは、私たちにとって鏡のようなものである」と言われます。私たちは、自分のことは誰よりも自分でよく理解しているつもりでいるのですが、自分の顔さえも鏡を用いなければ見ることはできません。ましてや、自分の本当の姿を自ら知ることは不可能です。だからこそ、私たちは仏さまの教えに耳を傾け、常に自らのあり方を省みることによって、初めて子どもたちの姿を、そしてその心をあるがままに映し出すことが出来るようになっていくのだと言えます。確かに、保育の現場において私たちは子どもを育てているのですが、実は子どもを育てながら私自身が心を育てられているのです。まことの保育の理念に「共に育ちあう」と掲げられているのは、まさにこのことを物語っているのだと言えます。

「宗教的情操教育」を行う上で、どのようなことに留意すれば良いですか。

 「宗教的情操」とは何かというと、研究者や教育者は「生命の根源に対する畏敬の念」であるといい、このことを踏まえて宗教的情操教育とは「いのちを尊び、大切にする教育」であると説明しています。なお「畏敬」というのは「畏れ・敬う」ということですが、仏教では仏さまを「畏れ」の対象とはしませんので、まことの保育においては仏教語である「恭敬(くぎょう)」を用いて「恭敬の念」と理解するのが適切であるように思われます。
 また「宗教的情操」とは、言い換えると「宗教心」のことで、「いのちに対しての尊さを知る心」、あるいは「お互いに生き合いながら生きているということについての深い頷きを持つ心」ということができます。保育連盟の「保育理念」では、このことを「生かされているいのちに目覚め」と述べています。そうすると「いのちに対しての尊さを知る心」を「教育」していくためには、保育者はどのようなことを心がければ良いのでしょうか。
 おそらく、幼児期というのは人間の一生の中で、無意識ではあるものの本能的にいのちの尊さを感じながら生きている時期だいえます。例えば、日頃子どもたちが道ばたや園庭に咲いている草花に話しかけていたり、小動物や昆虫とお喋りをしたりしている姿を見かけることがよくありますが、それらの光景からこのことは容易に窺い知ることができます。
 したがって、このような感性は、生まれたあと、つまり成長して行く途中で誰かに教えられることによって自分のものとして身に付けていくような後天的なものではなく、誰もが生まれながらにして具えている先天的なものだと言えます。このような意味で、すべてのことを意識し始めるこの時期に、そのことをはっきりと意識の中に定着させる営みを「宗教的情操教育」というのです。
 いのちの尊さを知ることの大切さは盛んに言われていますが、本来人間というものはいのちの尊さに頷く心を持って生まれてきている存在です。それは、生まれてから後で、誰かに教えられて初めて知るようなことではなく、そのことを自ら明確に意識するかどうかは別にして、誕生した時から本能的にそのような感性を持って生きているのです。その意味から言えば、いのちの尊さに頷く心根は、いのちと共に賜ってきたものだと言うことができまそうすると、それを教育していくということは、人が生まれながらにして具えている生命共存の感覚をあたかも心の奥深くにまで刻み込んで行くような営みを言うのだと思います。したがって、人間は成長して行く途中で誰かに教えられることによって初めて宗教的存在となるのではなく、むしろ本来宗教的存在であるものが、幼児期にそれを定着させていくための教育がなされないことによって、非宗教的存在になって行くのだと言えます。
 子ども達の心の奥にある、いのちに共感する心を呼び覚まし、そのことをきちんと自覚させ、生きる喜びを心に定着させることが出来るかどうか。このことが実現するかどうかは、ひとえに子どもたちと関わる私たち保育者が、いのちに共感することができているかどうかということにかかっていることを忘れてはならないと思います。