保育者のビタミン






 (4月) 失敗より、諦めのほうが、ほんとは恐い

折り紙が上手く折れない、パズルのピースが埋まらない、文字が上手く書けない、縄跳びが跳べない…、新年度によく見られる光景です。
 新しいことに挑戦して、それが自分の思うように上手く出来ないと、すぐに「出来な〜い!」と言って、投げ出したりする子がいます。
 子どもだけではなく、私たち大人も初めから何でも上手く行く訳ではありません。また、たとえ出来たとしても時間がかかったり、時には一生懸命頑張ったのに失敗することさえあったりもします。
 でも、例えば何か同じ物をいくつも作る場合、最初はかなり時間がかかったり、あまり上手く作れなかったのに、不思議なことに2つ目以降は短時間の内に満足の行く物を作ることが出来たりします。
 このことから知られるのは、私たちはたとえ失敗したとしても、そのことから必ず何かを学んでいるということです。だから、次にはその経験を生かして、順調に成し遂げることが出来たりするのです。
 ところが、上手く出来ないからといってそこで諦めてしまったのでは、何も次につながらないばかりか、挫折感が残るだけです。たとえ失敗しても、何度でも取り組む心を育みたいものです。

(5月) 母は、魔法使いだった

 すぐに美味しい料理を作ってくれたり、お化粧をすると別人のような変わってしまったり、散らかっていた部屋がいつの間にかきれに片づいていたり…。
 だから子どもの頃、心の中で「きっとお母さんは、魔法を使えるんだ!」と思ったりしたこと、ありませんか。
 だとしたら、もしかすると、子どもたちは
 歌をうたうとき、いつも気がつけば大きな声が出ているのも、
 ダンスを踊るとき、自然と身体が動き出してしまうのも、
 絵を描くとき、用紙いっぱいにたくさんのことを描いてしまうのも、
 目を閉じると、すぐに絵本や紙芝居で見た光景が瞼の向こうに浮かんでくるのも、
 いつも素晴らしいピアノの伴奏があるから。
 自然と身体が動き出すような素敵な振り付けを教えてもらえるから。
 心がときめくような画材が準備されているから。
 物語を見聞きしながら、登場人物たちと一緒に旅をしているから。
 だと、漠然と思っていかもしれませんね。

 そして、「母親だけでなく、もしかすると先生も魔法使いなのかもしれない」と、ひそかに思っているかもしれませんね。
 
今月も素敵な魔法で、子どもたちがワクワクする保育をお願いします。

(6月) 自分の欠点を他人と一緒に笑えるのは、その人の長所です

他人の悪口は、たとえそれが嘘であっても「面白い」と思ってしまうのに、その一方で自分のこととなると、たとえそれが本当のことであっても、注意やマイナスの評価を受けることは嫌なものです。
 また、自分が褒められると、実はそれがお世辞だと分かっていても嬉しいものですが、知っている誰かが評価されると「でも、あの人にはこんな面が…」などと、心の中で貶めてしまうこともあります。
 この世の中、きっと完璧な人間なんていないと思います。誰もが、それぞれ苦手なことはありますし、欠点だってあるものです。だから大切なことは、その欠点をちゃんと自覚して、何とか改善しようと努力することではないでしょうか。
 反対に問題なのは、決して他人の言葉に耳を傾けようとはせず、頑なまでに心を閉ざし「自分は絶対に間違っていない」と、どこまでも自分の正しさを主張し続ける態度です。

 ちなみに「酒は付き合い程度。煙草は吸わず、食生活など健康面に留意し、賭け事も一切せず、勤務態度良好で品行方正」な私ですが、「10代の頃からの“アイドル好き”を未だに卒業できないこと」を弱点だと自覚して、みんなと一緒に笑えるのが自分の長所だと思っています。

(7月) あなたの夏が、私の夏でありますように

保育に携わる人は、一方的に子どもを育てようとするのではなく、子どもから学ぶことが大切であると言われます。そこで「共に育つ」ということが重視され、『「育児」は「育自」』とも言われたりします。
 ところで、この「共に」はどのようにして生まれるのでしょうか。少なくとも「子どもと自分がそれぞれ5050を出し合い、それぞれお互い半分ずつを合わせて100」ということではないと思います。
 「共に」は、保育をすることが保育者自身の人生の内容になるということにおいて、初めて生まれてくることです。それは、言い換えると「あなたが一番輝いているのはいつですか?」と問われて、「保育をしている時です!」と、自信を持って言えるがどうかということです。
 それが言えた時、子どもには保育者がかけがえのない存在となってくるのです。保育者にとって、「子どもとの関わりが人生の内容になり、また自分が人間として育っていく上での大事な内容になっている」そういう意識があってこそ、子どもたちもまた保育者を忘れがたい人として心に刻み、ことあるごとにその出会いを振り返ると思います。
 そしてそこには、きっと共通の素敵な思い出が輝いているはずです。

(8月) 季節を感じて暮らすことが いま贅沢になってい

日本は、春夏秋冬のある国です。ところが、最近は季節が見えにくくなっている気がします。真夏の屋内スキー場、真冬の温水プール、食べ物にしても季節を感じられなくなったものがいっぱいあります。
 もし「確実に季節を感じることが出来るものは?」と尋ねられて、「春のスギ花粉症!」が答えの第一位とかだったら寂しい気がします。
 そういえば、近年は電力不足から「節電」が求められていますが、室内にいても「熱中症」になってしまうので、その対策として気温の高い日にはエアコンを積極的に使用することが推奨されています。

 ところで、エアコンが一般の家庭に普及していなかった自分の子ども時代、「どのようにして、暑〜い夏を乗り切っていたんだろう?」と振り返ると、夏休みの期間、午後1時から午後4時までは、いつも水の中(プール)で遊んでいたことを思い出しました。
 まさに、季節をからだいっぱいに感じて「贅沢な時間」を過ごしていた訳です。いろんなものが季節感をなくしている時代だからこそ、この夏、子どもたちに夏ならではの遊びをいっぱい体験させて、「季節を感じて暮らすことのできる、贅沢な時間」を過ごさせてください。

(9月) なんでもない、ほど、難しい

有名な木登りだと言われている男が、人を指図して高い木に登らせて梢を切らせたとき、とても危なく見える間は何も言わなかったのに、降りてくるとき安全だと思われる軒の高さくらいになったところで、「けがをするな。注意して降りろ」と、はじめて言葉をかけました。
 そこで「これくらいの高さなら、たとえ飛び下りたとしても降りられるのに、どうしてそのような声かけをするのか」と尋ねたところ、「高くて目がくらみ、枝が折れそうで危ない間は、自分でも恐れて用心しますから、注意はしません。けがは、安全な所になってから必ずするものです」と答えたという話が、『徒然草』に記されています。
 そういえば、日頃保育の中でも、自分が気を張りつめている時には事故はあまり起きないものですが、ほっとしたり、「もう大丈夫」と安心した時に、予期せぬ出来事が起こったりするものです。
 
「なんでもない」というのは「取り立てて問題にするほどではない・たいしたことはない」という意味ですが、保育の現場では、日々いろんなことが不意に起きるものです。ほっとしたり、安心した時にこそ、この有名な木登りの言葉かけを思いだすようにしてください。

(10月) 本の中の友だちが、いちばん古い友だちになったりします
 
 太陽の黒点に変化が起きて、地球の温度が急激に上昇し、
干してある布団から煙が発生するほど深刻な状況になってしまいました。そこでお茶の水博士は、黒点の異常な状態を元に戻す無人ロケットを開発しました。
 そのロケットは自動操縦ですが、軌道が外れないようにするため、途中まではアトムが乗り込みます。ロケットは宇宙空間の闇を突き進み、燃え盛る太陽に向かって進んでいく途中で隕石が接近してきてぶつかってしまいます。そのため、太陽に向けていた軌道が逸れてしまいます。
  そこでアトムは、地球のお茶の水博士に「僕がこのままロケットを太陽まで誘導します!」と通信して、10万馬力のパワーでロケットを太陽に向けて誘導します。やがて、アトムの誘導するロケットは太陽に衝突し、黒点は正常な状態に戻りました。
アトムの勇気が、人類の危機を救ったのです。

 これは鉄腕アトムの最終回です。「20世紀少年」達は、地球を救ってくれたアトムに感動し、自らを犠牲にしても愛するものを守る勇気の大切さを学びました。
アンパンマン、のび太くん、孫悟空、ナルト、ルフィ、etc. さて、
21世紀の子ども達も、同じようにアニメの主人公達を、いろんなこと教えてくれた「親友」として心に刻んで行くのでしょうか。
 今出会っている子ども達に、将来心に残る素敵な物語の読み聞かせをお願いします。

(11月) 見栄をはると 肩がこる

どうして、私たちは思わず「見栄」をはってしまうのでしょうか。「見栄」というのは、「うわべを飾る。外観を繕う」という意味です。そうすると、つい「見栄」をはってしまうのは、きっと「自分の本当の姿を他人に見られたくない」と思うからかもしれません。
 では、「他人に見られたくない自分の本当の姿」って、いったいどんな姿なのでしょうか。人は、誰もが心の奥に理想の自分の姿を思い描いているのですが、現実の自分の姿は決してそうではありません。
 そのため、つい「理想通りではない今の自分は、本当の自分の姿ではない」という思いが、無意識の内に自分のうわべを飾らせたり、外見を繕わせたりしてしまうことになるのだと思います。
 でも、そんな飾ったり繕ったりした自分は、本当の自分でないことは、誰よりも自分自身が一番よく知っています。それだけに、余計に飾ったり繕ったりしたものの重さが、肩をこらせてしまうのです。
 だから、「見栄」は捨てて身軽になりましょうよ。自分で自分を好きになれないようなら、そんなあなたを誰も好きにはならないと思います。ありのままの自分を愛せるような生き方、してみませんか。

 (12月) 一緒なら、きっと、うまく行くさ

 「三人寄れば文殊の知恵」という言葉があります。文殊とは智慧を司る文殊菩薩のことで、これは「特別に頭の良い者でなくても三人集まって相談すれば何か良い考えが浮かぶものだ」という意味です。
 保育の現場においては、先生方は自分のクラスのことだけでなく、大きな行事をはじめとして園内の清掃や安全管理など、園の職員全体で取り組まなければならないことがたくさんあります。
 この場合、役割分担をして、それぞれ責任を持って職務に当たることになるのですが、特に行事などでは「他の先生方に迷惑をかけては申し訳ない…」と、つい頑張り過ぎてしまうことがあったりします。
 もちろん、最初から他の先生方の助力をあてにしているようでは困ったものですが、行き詰まってなかなか良い考えが浮かばなかったりするような時は、遠慮なく周囲の先生方に相談してみましょう。
 相談する際は、自分が困っていることを説明することになる訳ですが、話すことによって自分の考えを整理することができますし、自分とは違う視点からの意見を聞いて、考えを見直すこともできるからです。困難に見えることで、誰かと一緒なら、うまくいくものです。

(1月) いろいろ奪うと、大人ができる

 子どもの頃、新年は「お年玉をもらえる」と嬉々として迎えたものですが、大人になってからは、いつの頃からか「ああ〜、今年もまた一つ歳を取る!」と鬱々とした感じで迎えるようになりました。
 しかも「今年で○○歳」と自分の年齢を確認すると、「毎年1歳ずつ」ではなく、「途中から4、5歳ずつ加齢したのでは?」と思ってしまいます。なぜなら、子どもの頃に漠然と抱いていた今の年齢になった時の自分は「立派な大人になっている」はずだったからです。
 けれども、外見はともかく中身は「子どもの頃とほぼ変わっていない」というのが正直なところです。居酒屋で注文するのは「卵焼き、鶏の唐揚げ、ウインナー、…」、マンガの主人公の活躍に勇気をもらったり、相変わらず“アイドル好き”は卒業出来ないままだし…。
 「大人になる」って、いったいどんなことなんでしょうか。「辞書」には「精神構造が熟成していて目先の感情よりも理性的な判断を優先する人」と説明してある一方、「妥協や周囲への迎合、事なかれ主義などを“大人の考え”ともからかって言う」と説明されています。
 少なくとも、子どもの頃に抱いた夢とか希望を見失ったり諦めたりすることを、「大人」だとは思いたくないものです。あなたの中の理想の保育者は、決して「変な大人」にはならないでください。

(2月) 好きだから、あげる

 好きな人に何かプレゼントをする時って、とってもドキドキするものです。それは、表面的にはその人に物を贈るように見えて、実は「好きです!」という気持ちを贈ろうとしているからではないでしょうか。だから、その「反応」に一喜一憂してしまうのだと思います。
 一般に物を贈られたときは、その贈られた物の価値を見て、相手がどれくらい自分のことを思ってくれているか推し量ったりします。だから、期待した以下の物だったりすると失望したり、反対にあまりにも高価な物を贈られたりすると、その後の見返りを期待されているようで不安を感じ、素直に喜べなかったりすることもあったりします。

 ただその人のことが「好き」だから、喜んで欲しくて、何かをその人のためにしてあげたり、物で思いを届けたりしたいだけなのに、やはり「反応」に一喜一憂してしまう…、なかなか難しいものですね。
 考えてみると、自分にとって好ましいことが、必ずしも他人にとっては好ましいとは感じられないことがあります。自分が何かすることでその人が喜んでくれたら、それを自分の喜びとする。一方的に押しつけるのではなく、共に喜び合える関係を築けたら良いですね。

 (3月) 私は、あなたの、おかげです

 あなたが子ども達と笑い合ったり、元気に過ごしていられるのも、それはみんなみんな“誰か”のお蔭です。だから、感謝の思いを込めて、今度はあなたが周りの“誰か”のお役に立ってあげませんか。

世の中は、決して“私の思い通り”にはならないものです。だから「この人と一緒にいると、とっても楽しくって時間があっと言う間に過ぎてしまう」という人がいる一方で、見た瞬間に「まだ元気にしてるのか…」と、心の奥底でつぶやきたくなるような相性の悪い人もいたりします。

大好きな人は、生きる上でのエネルギーを与えてくれたり、会えない時でさえも、次に会える時までの楽しみを与えてくれるものです。

その一方、相性の悪い人は誰も指摘してくれないような私の弱点をズバリと言葉で突き刺してくれるので(だから嫌いなんでしょうけど)、大いなる反省の機会を(無理やり)与えてくれたりします。

好きな人も嫌いな人も、みんなみんな誰もが、今の私を育んでくれているのです。こんな私でも、ここまでこうして何とか生きて来ることができたのも、どう考えてみても「たくさんの人のお蔭があったから」です。
 だから、今後はそのご恩を少しでも返していけたら…と思います。