今回の改訂のポイントとまことの保育との関わり
今回の改訂では、これらの「力」を就学前に十分育んだうえで、小学校の入学直後には、生活科を核とした「スタートカリキュラム」と呼ばれる総合的な授業を行い、各教科の本格的な学びへと円滑につなげようとしています。
この「幼児期の終わりにまで育ってほしい姿」は、「幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続の在り方に関する調査研究協力者会議」の報告書で、「学習指導要領においては、育つべき具体的な姿が示されているのに対し、幼児期については幼稚園教育要領や保育所保育指針からは具体的な姿が見えにくい」という指摘があり、小学校側からの要請を受けて歩み寄る形で編み出されたもので、5領域にあるキーワードを小学校学習指導要領の記し方に沿って示したものです。
幼稚園・保育園・こども園・小学校との間で、子どもの育つべき具体的な姿を共有し、それが共通に認識すべき事柄として明示されたことは意義あることです。けれども、既に5領域に関する知識も保育の実績も十分にある保育者にとって、この内容はこれまで大切にしてきたことばかりです。
また、一々の項目の内容は、これまで「まことの保育」において「保育主題」として掲げられてきた12の項目とめざす内容はほとんど重なっています。したがって、まことの保育を推進してきた園にあっては、何か新しい取り組み方を模索する必要はなく、むしろこれまでのあり方をさらに深めていけばよいのだと言えます。
ところで、「幼児期の終わりにまで育ってほしい姿」が保育指針や教育要領等に列挙されると、保育の現場では10の姿をそのまま到達目標にしたり、これらに当てはめて子どもを評価したりする在り方に陥ってしまうことが危惧されます。けれども保育者が評価しなければならないのは、子どもの出来不出来、つまり到達できたかどうかということではなく、保育環境を含む実践の内容や方法についてです。
子どもが生きる現実や、今ここに存在する一人一人の子どもの姿こそ大切にするべきで、10の姿や保育主題はあくまで方向性と考えれば良いように思われます。
保育には、大人の願いが込められます。そのため、そこにはそれぞれの保育者の子ども観や価値観が投影されます。それは当然のことであり、人から人へ手渡す営みが保育でもあると言えます。しかし、一方的な期待やこうなるべきだという要請は、時に子どもたちを苦しめることになります。
「まことの保育」では「私の思い」ではなく「仏さまの願い」を依りどころにします。それは、私たちが自分の意識を離れて物事を見ることができない存在だからです。仏さまの教えはしばしば鏡にたとえられますが、教えを聴くと私のあるがままの姿が映し出され、そこに自らのありようが問われます。このように、私たちは仏さまの教えに耳を傾けることによって、ともすれば独善的なあり方に陥ってしまうわが身を振り返り、自らのあり方を問い、確かめながら保育を進めていくことができるようになるのです。子どもを一方的に育てるのではなく、子どもを育てる私が同時に保育者として成長していくというところに、まことの保育が「理念」として掲げる「共に育ち合う」具体的光景が見られます。
|