大沢在昌『氷舞 新宿鮫VI』光文社文庫 2002年

 「君が迷うような人であるからこそ,我々は君に望みを託せるのだ」(本書より)

 新宿のホテルで発見されたアメリカ人男性の射殺死体。彼の部屋からコカインが発見されたことから,鮫島は事件に関わるが,公安外事部が捜査権を掌握,鮫島たちは遠ざけられる。別ルートで事件を追うことにした鮫島だが,彼の前に元公安の秘密刑事・立花が立ちはだかる。なぜ公安部はこの事件にこだわるのか? そして事件の背後にちらつく政治家の影。鮫島はかつてない敵に戦いを挑む…

 本シリーズでは,たとえば『毒猿』における“毒猿”『無間人形』における香川兄弟『炎蛹』における仙田と,強力でしたたかな犯罪者を登場させ,鮫島と対決させてきました。とくに第3作『屍蘭』以後になると,犯人の側の動向や思惑を冒頭より積極的に描くことで,鮫島vs犯罪者という対立軸を,ストーリィのメインに置くようになります。つまり鮫島の活躍とともに,魅力的な“悪”の創造にも作者が力を入れているように思えます。しかし彼らは,魅力的とはいえ,基本的に「法の外」に立つ者です。鮫島と彼らとの対立とは,「法」をめぐる対立でもあるわけです。
 それに対して,今回登場する,元公安部の秘密刑事立花は,「元」とはいえ,かつて鮫島と同様に警察に所属し,立花の背後にいる政治家京山もまた,公安部出身の人物です。たしかに彼らは,みずからの目的や保身のために,邪魔者を排除し,殺人を犯します。それが犯罪であるという点では,これまでの鮫島の敵と同じですが,そこに「警察観」の違いという,もうひとつの対立軸が加わります。さらに警察組織が持つ構造的な対立軸−キャリアとノンキャリア−も挿入されることで,従来の鮫島vs犯罪者という単純な対立軸で進むストーリィとは,また異なるテイストを醸し出しています。とくに,これまで何かと鮫島と対立していたキャリア警官香田を,鮫島とは異なる「警察観」を持つ警察官として描き出すことで,鮫島を「立てる」ためのキャラから脱却させている点は注目されます。
 このような複雑な対立軸を象徴しているのが,事件を執拗に追う鮫島に持ちかけられた“本庁復帰”という「取引」でしょう。それはたしかに,事件から鮫島を遠ざけるためのものですが,「現場を知るキャリア」が本庁に所属することで,現場のノンキャリアの刑事たちにとってもいい結果になるのではないか,と考え,鮫島は迷います。犯罪者を現場で追うことは,鮫島にとって自己満足に過ぎないのではないか? しかし「取引」に応じることは,これまで鮫島を支えてきたものを失うことになるのではないか? などなど,今回のエピソードにおける鮫島の微妙な立場を示しています。
 さらに鮫島の恋人との関係も危ういものを抱え込みます。ロック・シンガーとして活躍する晶,そのために逢う時間がとれないふたり。鮫島は,晶のために「身を引く」可能性をも考えはじめます。そして鮫島とマホこと杉田江見里との悲恋は,「立場の変化」にともなう恋人関係の危機という「ありがち」なパターンに,もうひとつ別の味わいを加えています。つまり「刑事とロック・シンガー」という異色のカップリングは最大の危機を迎えると言えましょう。
 以上のように,「善悪図式」では割り切れない複雑で錯綜する対立軸の導入,鮫島の微妙なスタンス,晶との関係の見直し,などなど,本作品は,いわば本シリーズにおける「基盤」となっていたものが,大きく揺り動かされるという点で,シリーズの中でもやや異色の手触りを持った作品となっているかと思います。今回の「事件」が,鮫島をどこに導いていくのか,気になるところです。
 しかしだからといって,本シリーズの最大のセールス・ポイントであるスピード感あふれるアクション性は,けっしておろそかにされていません。たとえば殺し屋増添康二との山中での死闘。丸腰の鮫島が銃を持つ増添といかに渡り合うかというスリルや,ラストでの緊張感あふれる立花との対決など,そのケレンみと迫力は,まさにこの作者の独壇場といえましょう。

02/08/25読了

go back to "Novel's Room"