京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』講談社ノベルズ 2003年

 「この,言葉に出来ぬものを言葉にするのが僕の役目です」(本書 中禅寺秋彦のセリフ)

 “鳥の城”…信州の山中,白樺湖畔に建つ洋館は,そう呼ばれていた。無数の鳥の剥製で埋め尽くされた“城”に住む元・伯爵の由良昴允は,かつて4度の結婚式の翌朝,4度とも花嫁が殺されるという悲劇に見舞われていた。そして5度目,伯爵は探偵を呼ぶ。榎木津礼二郎という,きわめて奇妙な探偵を…5度目の惨劇は避けられるのか?

 『塗仏の宴』から5年,途中,『百鬼夜行−陰』『百器徒然袋―雨』といった短編集を挟むものの,じつに久しぶりの京極堂シリーズの長編です。でもシリーズ中の時間では,『姑獲鳥の夏』からわずか1年しか経過していないんですね。そんな短い期間に,こう次から次へと怪異な事件に巻き込まれれば,関口巽も壊れるはずです(^^ゞ

 さて本作品は,複数の“私”という一人称の「語り」によって構成されています。シリーズ,メイン・キャラのひとり,作家の関口巽“鳥の城”の主人“伯爵”こと由良昴允,そして“鳥の城”の過去の事件に関わった元刑事伊庭銀四郎(この人物は『今昔続百鬼−雲』中の「古庫裏婆」で,少しだけ京極堂に絡んでいます)です。
 京極堂シリーズを長らくお読みになっている方なら,この一人称による構成に対して,思わず「身構えて」しまうことと思います。というのも本シリーズは,物理的トリックもあるとはいえ,むしろ,知覚の齟齬,認識の誤謬,記憶・経験と呼ばれるものの曖昧さ・脆弱さに基づく心理トリックを基調としているからです。
 ですから「私」で語られる内容について,どれほどの信頼が置けるか,という点について,京極堂ファンは,最初から疑ってかかることになるでしょう。作中,関口巽の「語り」の中における「自己」に対する不信感は,彼のキャラクタに由来するものであるとともに,まさにこのシリーズに基調にあるものと響きあうものでしょう。つまり「一人称で語られる内容は,鵜呑みにしてはいけない」というのが,京極堂シリーズに対するときの「正しい姿勢」です(笑)
 それゆえ,それぞれの「語り」同士に齟齬はないか? 不整合はないか? という風に読み進めていくわけですが,そこらへんはこの作者,そうそうボロは出しません(笑) 伯爵の言葉は,たしかに少々エキセントリックなところはあるとはいえ,言っている内容はけっして奇矯ではない。関口の「語り」もまた,例によってくどくどしくはありますが,後半なぞ,じつにまっとうな行動をしている。伊庭元刑事は,やはり刑事の「目」で,過去に起きた事件の経過を再構成している。つまりそれぞれの「語り」には一貫性があり,そして「語り」同士で整合しています。

 にもかかわらず,怪異ともいえる殺人事件が起きるのはなぜか?

 −本編の眼目は,まさにそこにあるのでしょう。
 その真相は,もちろんネタばれになるので詳しくは書けませんが,個人的には満足のいくものでした。動機の一部については,民俗学的知識が多少ある人間には,途中の京極堂の会話で見当の付くところもありますが,マルティン・ハイデッガーの実存主義と,儒学という,なんともミス・マッチのふたつの思想を巧みにこね合わせるとともに,大胆に換骨奪胎することで,本編のメイン・トリックと異形の動機へと展開させていくところは,この作者の真骨頂ともいえるテイストが堪能できます。
 またこのシリーズにしては珍しい,比較的後味の良い幕引きも,楽しめた理由のひとつでしょうね。

 次作は『邪魅の雫』とのこと。さてさていつになりますやら(笑)

03/08/20読了

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