京極夏彦『塗仏の宴 宴の支度』講談社ノベルズ 1998年

「しかし京極堂は容赦なく続けた。それは彼の本意ではないのかもしれないが,それが彼の役割なのだ。」(本書より)

 消えた村を探してほしい・・・・懇意にしている編集者・妹尾を通じて,奇妙な取材依頼をされた作家・関口巽は,ひとり伊豆山中へと旅立つ。その村には,戦前,大量殺人が発生したという噂が伝わっていた。が,先祖代々住んでいる村人はそんなことは知らないと言う。いったい誰の言葉が正しく,誰がおかしいのか? 村でこの世のものとも思えぬ光景を眼にした関口は,記憶を失い,そして逮捕されてしまう・・・。

 『絡新婦の理』以来,1年4ヶ月ぶりの「京極堂シリーズ」は,『宴の支度』『宴の始末』からなる,上下2冊本です。新刊が出るたびに分厚くなってきた本シリーズも,ついに1冊で収まらなくなるまでになってしまったようです(笑)。
 最初は,「『始末』が出てから,まとめて読もうかな」と思っていたのですが,ふーまーさん@電悩痴帯ぐりさん@いが栗の里が,「勿体ない,勿体ない」と口をそろえておっしゃるものですから,「『始末』が出る頃には,こちらの内容をすっかり忘れているかもしれない」という不安に怯えつつも,読んでみました(ですから,フェイス・マークは『始末』が出るまで保留します)。

 さて物語は,『絡新婦』ではとんと姿を見せなかった関口巽が,伊豆山中へ赴き,不思議で不気味な経験をするところから始まります。しかしストーリィは,けっしてそこから一本調子で進むのではなく,いまだ明らかにされていない「空虚な中心」の周囲を,小さな渦巻きをつくりながら巡っていきます。
 「京極堂ファミリィ」とでもいうべき,関口巽,中禅寺敦子,榎木津礼二郎,木場修太郎,さらに『狂骨の夢』に出てきた朱美,『絡新婦』の織作茜,そして京極堂。彼らはそれぞれに不可思議な事件に遭遇します。それらの事件はいずれも“新興宗教”や“人格啓発セミナ”のごとき結社が絡んでいます。本シリーズは,昭和28年を舞台としつつも,現代的なテーマを(半ば強引に)持ち込んでいるところが特色のひとつですが,今回は,そういった結社でしばしば問題とされる“洗脳”あるいは“マインド・コントロール”が俎上に乗せられているようです(京極堂が「ひょうすべ」で解説する,『みちの教え修身会』の「手法」は,まさにそのものです。以前,友人が似たようなものに入会してしまい,しつこく勧誘されたことがあります)。
 それらの事件は,それなりに独立性と完結性を持ちながらも,ニアミスを繰り返しながらつながっていきます。そしておそらく,中心にある,より大きな事件,謎とリンクしている構造になっているようです。ここらへんの「語り口」は相変わらず巧みですが,今回は,事件が,妖怪の名前を冠した章ごとに(短編ごとに?)描かれていますので,より一層効果的に描かれているように思います。
 巨大な渦の周りにできる小さな渦巻きの群。そして個々の小さな渦巻きと,中心の巨大な渦巻きとは,ストーリィ的にもつながっていますが,またモチーフ的にもリンクしているようです。そのモチーフの正体は,『始末』が出ないことにははっきりしませんが,キーワードはいくつかすでに散りばめられているように思います。それは「自由意志」「人格」「記憶」や「妖怪の名前」,そして「本末転倒」なのではないかと想像しています。
 見るものと見られるもの,騙すものと騙されるもの,操るものと操られるもの,それらは容易に入れ替わり,個人が人格の基礎にしている記憶は作為され,改変され,自由意志と思われたものは傀儡師の糸の動きでしかなく,因と果とが倒錯し,すべては巨大で空虚な中心的謎に流れ込んでいく。『絡新婦』をも凌ぐ巨大な蜘蛛の網目の真ん中で嗤っているのはいったい何者なのか? 京極堂はいかにしてその“憑き物”を落とすのか? そして自我崩壊に直面する関口の運命は如何?

 ところで,内容とはあまり関係ないのですが,「しょうけら」で京極堂と木場修との会話で,京極堂の民俗学的思考方法を,木場修が刑事の言葉に置き換えて理解しようとするシーンは,なかなか笑えました。

追記:なお「解決編」『塗仏の宴 宴の始末』の感想文はこちらです。

98/04/07読了

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