京極夏彦『今昔続百鬼−雲』講談社ノベルス 2001年

 “俺”沼上蓮次は,戦争で日本が焦土と化したご時世に,伝説やら妖怪やらにうつ つを抜かす「馬鹿」である。ところが,“俺”に輪をかけた「馬鹿」に出会ってしまったのが運の尽き。自称・妖怪研究家“センセイ”こと多々良勝五郎と“俺”が,伝説採集に旅行に出るたびに,なぜか奇妙な事件に巻き込まれてしまう。もしかすると妖怪の祟りかもしれない・・・

 というわけで,京極堂シリーズの『陰摩羅鬼の瑕』を,もうずいぶん前から告知しながら,いっこうに出す気配のないこの作者の新作です。で,挿入されたイラストレーションの作画が,ふくやまけいこ,というのがちょっと意外。この作家さん,ほのぼの系ファンタジィを得意とする方ですよね? この方が描くセンセイ,作中で描写されるセンセイより,ずっと善人風に見えてしまいます(笑) 沼上もとても30歳前後には見えないし・・・^^;;

 さて内容はというと,サブ・タイトルに「多々良勝五郎先生行状記」とあるように,「妖怪馬鹿」の多々良先生と,その弟子というか,助手というか,お世話係というか,被害者というか(笑)“俺”が,全国各地で遭遇する怪異な事件を描いた連作集です。
 この多々良センセイ,妖怪やら伝説やらの知識は膨大なものがあるのですが,もう「ジコチュウの固まり」といった感じのキャラで,同行する“俺”はいつも振り回されっぱなしです(こういった,強烈なキャラクタとそれに振り回される語り手,というのは,京極作品のひとつのパターンとなってますね)。最初に立てた旅行計画は,いつもセンセイの思いつきで滅茶苦茶になり,その結果,奇妙な事件に巻き込まれる,というフォーマットになっています。
 たとえば最初のエピソード「岸崖小僧」では,山梨の山中,嵐のために遭難しそうになったふたりは,真夜中ようやくたどり着いた村の川辺で,河童に殺される男を目撃して・・・と展開していきます。多々良センセイと“俺”との,漫才で言えば「ボケとツッコミ」みたいな会話に圧倒される感じで,あれよあれよと読み進めることができましたが,ミステリとしてのトリックは,なんだかファンタジィめいた「バカミス」といったところがありますね。
 続く「泥田坊」は,雪山の寒村で「田を返せぇ」と叫ぶ,不気味な影を目撃したふたり,その村に滞在中,殺人事件に巻き込まれ・・・というお話。一種の「雪密室」を扱った作品です。このトリックもなぁ,たしかに某有名作家の「先例」はあるとはいえ,反則ギリギリのようにも思えてしまうのですよね。「泥田坊」の叫びにしても要するに駄洒落というか,地口というか・・・でもラストがきれいに落ちているところは好きです。
 「手の目」は,ひなびた山村に逗留せざるを得なくなったセンセイと“俺”は,そこで奇妙な事件に遭遇し・・・という内容。舞台を敗戦直後に設定しながら,現代的テーマを織り込むというのは,この作者のお得意パターンですが,本編もそれに該当すると言えましょう。村の男たちが集まる理由,けっして負けることのない博打打ち,とふたつの謎が提出されますが,そのせいか物語の焦点がちょっとぼんやりしてしまっているところがありますね。とくに後者がスラプスティクの末に落着してしまうという展開が,より一層,ストーリィの求心力を減じているように思います。
 ラスト「古庫裏婆」は,出羽三山の「即身仏」を見に行ったふたりは,同宿した男から荷物一切を盗まれてしまい・・・というストーリィです。衛生博覧会に出品されたミイラは,じつは新しいものかもしれない,という猟奇的な謎,「即身仏」という伝奇的な素材,本人たちが気づかないうちに事件の渦中へと巻き込まれていくという展開などなど,京極堂シリーズにしばしば見られるストーリィ展開ですが,それもそのはず,「あの男」が登場します。ただし,「あの男」の登場で,事件がその姿を一気に変えていくところは同じですが,それをもっぱら被害者の側からの視点で描き出していくところは,若干テイストが違っているようです。

 ところで本連作では,鳥山石燕描くところの『画図百鬼夜行』が重要なモチーフとして取り上げられています。この本は京極堂シリーズでも「導きの糸」としておなじみですが,本編では,そこに描かれている「妖怪」そのものの由来沿革へとさかのぼるのではなく,一種の「図像学」的な読み解きをしている点で,京極堂とは異なる,ユニークな視点を設定していると言えましょう。

01/12/14読了

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