藤沢周平『凶刃 用心棒日月抄』新潮文庫 1994年

 長年に渡って藩政を影で支えてきた隠密集団“嗅足組”を解散する−その密命を江戸嗅足組に伝えるため,16年ぶりに江戸へ向かった青江又八郎。しかし,彼を待っていたものは,懐かしい佐知の笑顔だけでなく,藩の秘密をめぐる,血で血を洗う暗闘だった・・・

 「用心棒日月抄シリーズ」最終作であります。ですが,前作『刺客』から,作中において,じつに16年の歳月が流れています。主人公青江又八郎もすでに40歳代半ば,腹の肉が気になる中年になっております(「人生50年」のこの時代ですから,今でいえば,限りなく「老年」に近いのかもしれません)。
 また前作までは連作短編集という体裁でしたが,本編は長編作品となっています。第1作『用心棒日月抄』では,錯綜する複数の流れを,連作短編とすることで,ストーリィ展開に小気味よいリズム感を与えていましたが,『孤剣』『刺客』へと続くに連れ,メイン・ストーリィと各短編のエピソードとが,やや乖離しているような感じを受けていました。ですから,個人的には,この変更は正解だったのではないかと思います。

 さて物語は,「嗅足組解散」の密命を受けて,又八郎が江戸にのぼるところから始まるわけですが,それと相前後して,藩内で発見された公儀隠密の死体とその消失,又八郎に密命を下した嗅足組頭榊原造酒の斬殺,出国する又八郎を襲う謎の刺客,と,つぎつぎとミステリアスなシチュエーションが挿入され,じつに魅力的な導入部を構成しています。
 さらに又八郎が江戸に着いてからも,江戸嗅足組とは別の目的で暗躍する国元嗅足組の一群,その国元嗅足組と暗闘を繰り広げる謎の隠密,国元へ帰った江戸嗅足組たちの連続殺害,そして江戸嗅足組に対する殺意は何に発するのか? それを背後に操る黒幕は何者なのか? 事件の核心とも呼べる藩存亡をかけた秘密とは?,と,謎が謎を呼び,ぐいぐいと物語をひっぱっていきます。ミステリ好きにはたまらない展開です。ここらへんの巧みなストーリィ・テリングは,江戸を舞台としたハードボイルド・ミステリ「彫師伊之助捕物覚えシリーズ」でも見せた,この作者の持ち味と言えましょう。

 そんなアップテンポなストーリィ展開とともに,この作品のもうひとつの魅力となっているのが,又八郎が江戸を離れた「16年間」という,けっして短くない月日の流れと,それがもたらしたさまざまな変化の描写です。とくにそれをもっとも象徴しているのが,かつての用心棒仲間細谷源太夫の姿です。
 いったんは再仕官なって,順調な人生を送っていたと思われていた細谷は,しかし,妻を失い,年をとり,おまけに酒毒に冒されながら,ふたたび用心棒生活を送っています。また,久しぶりに再会した又八郎に対して見栄を張るのですが,その虚偽は,細谷の娘美佐によって暴かれます。「自由」であることが,避けようもなく持たざるをえないリスクを,細谷の哀しい姿によって描き出されています。それはちょうど,学生時代,一緒に酒を飲み,堂々巡りの議論を繰り広げ,それでも飽きもせずつるんでいた友人が,すっかり変わってしまって目の前にふたたび現れたときに感じるもの悲しさ,せつなさ,やるせなさに近しいものなのかもしれません。
 物語は,口入れ屋相模屋吉蔵の死と,細谷源太夫の用心棒稼業からの引退−息子の住む越前への隠居−,又八郎の帰国と,それにともなう佐知の別れでもって,幕を閉じます。それは16年という長い歳月の果てに訪れた「青春の終わり」をも意味しているのかもしれません。そしてこのとき,又八郎の用心棒としての日々は,いっさいの幕を引いたのでしょう。

01/04/29読了

go back to "Novel's Room"