藤沢周平『消えた女 彫師伊之助捕物覚え』新潮文庫 1983年

 女房が別の男と無理心中を遂げて以来,十手を捨て,版木彫りの職人として味気ない日々を送っていた伊之助は,ある日,かつて世話になった元岡っ引きから,失踪した娘おようを捜してもらうよう依頼される。苦い想いを胸に秘めながら,おようを捜しはじめた伊之助は,彼女の元亭主に狙いを定めるが,彼は,伊之助の眼前で刺し殺されてしまう。およう失踪の背後にはいったいなにが隠されているのか・・・

 書店で,この作者の『漆黒の霧の中で』という,時代物らしからぬタイトルの作品を目にし,先日読んだ『用心棒日月抄』がおもしろかったので手にとってカヴァ裏を見ると,「大江戸ハードボイルド」なる惹句。「ほほう」と気を引かれるも,『漆黒』はシリーズ第2作とのことで,さっそく,その第1作,本書を購入した次第です。

 「看板に偽りなし」でした。舞台は江戸時代ではありますが,まさにハードボイルド探偵小説であります。主人公の伊之助は,元凄腕の岡っ引きですが,女房が別の男の逃げて,無理心中してしまって以来,十手を捨て,版木彫師として「誰にもあてにされたくない」日々を送っています。こういった暗い過去の傷を背負っているあたり,ハードボイルド小説の主人公のキャラクタ造形と通じるものがあります。今風に言えば,敏腕の元刑事が,妻の死をきっかけに退職,零細な業界誌かなにかの校正アルバイトをしながら日々を送っている,といったところでしょうか。で,元上司の依頼で,探偵を引き受けるというわけです(そう考えると,おまさは,主人公の行きつけのスナックのママさんといった風情ですね)。
 また,行方不明の娘を追う伊之助に,かつての上司,同心の半沢情次郎は,再三,十手を渡そうと言いますが,伊之助がそれを断り,あくまで自分ひとりの力で探し出そうとするあたりも,警察権力に頼らない私立探偵の心意気と同質のものといえるかもしれません。

 さてストーリィは,伊之助が,かつて世話になった元岡っ引き弥八の依頼を受けて,娘おようを捜そうとするところからはじまりますが,何かを隠しているとあたりをつけたおようの元亭主由蔵が,伊之助の眼前で殺されてしまいます。ここらへんから,物語は躍動感を得,がぜんおもしろくなってきます。おようの失踪は,人ひとりを殺してでも隠さなければならない秘密がある,というわけです。
 作者は,さらに「ながれ星」と綽名される怪盗を登場させます。「なにゆえにこんなエピソードが?」と,読んでいて思ったのですが,これがしだいにメイン・ストーリィに絡んできます。そのふたつの流れを交錯させる展開は,意外性があり,楽しめます。また,その「ながれ星」が執拗に狙う材木問屋の高麗屋,天女のような美女ながら,じつは男狂いの高麗屋の女主人おうの,由蔵を一刺しで殺した謎の殺し屋などなど,捜査をつづける伊之助の周囲には,一癖も二癖もある人物たちが出没し,錯綜した人間関係を織りなしていきます。
 その網目を辿るうちに,伊之助は,高麗屋に潜む「闇」に行き当たり,事件の真相へと肉薄するわけですが,こういった展開も,失踪人の追跡というささいな事件から思わぬ事態に直面するハードボイルド小説の定番とも言えるものでしょう。その手の小説の好きなわたしにとっては,もう,ワクワクドキドキする展開です(笑)。
 それから,『用心棒日月抄』の感想文でも書きましたが,この作者の描く剣戟シーンは,けれん味たっぷりで迫力があります。本作品でも,要所要所にそんな「山場」がこしらえてあって,読んでいて飽きさせません。とくに伊之助が,ある体術を習っていたという設定であるため,刃物を持った相手に素手で渡り合うところなぞ,じつに小気味よいものがあります。

 ところで,本作品は時代小説とはいえ,かなりミステリ色の濃い作品ですので,カヴァ裏の「あらすじ」は,ちと書きすぎではないでしょうか?

00/05/06読了

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