夢枕獏『神々の山嶺(いただき)』集英社文庫 2000年

 「深町には,その男が,頂にゆこうとしているというより,星の天に帰ろうとしているもののように見えた」(本書より)

 山岳カメラマン深町誠が,ネパール・カトマンドゥで見つけた古い壊れたカメラ――それは,1924年エヴェレストで行方を絶った登山家G・マロリーのカメラなのか? そしてそのカメラの所有者,“毒蛇”と呼ばれる日本人は,伝説の天才クライマー羽生丈二なのか? ふたつの謎を追って深町はふたたびネパールへ飛ぶ。地上でもっとも天に近い場所で,男たちはなにを求めようとしているのか・・・

 「人はなぜ山に登るのか」――登山の趣味も経験もないわたしは,その問いに答えることはできませんし,そもそもそんな「問い」を発するモチベーションさえも持ち合わせていません。そんな,わたしにとってリアリティのない「世界」を描いたにもかかわらず,なにゆえこれほどの感銘をもって,本書を読み終わることになったのでしょうか。
 その手がかりを与えてくれるのが,前半に書かれている「エヴェレスト登頂」と「宇宙開発」との連続性です。
 「アポロ計画というのは,あれは,大がかりな登山であったのだ,と深町は理解していた」
 これは作者自身の理解でもあるのでしょう。この理解において,山に登るという行為は,「天を目指す意思」という,より大きなベクトルの中に取り込まれいます。より高く,より遠くへ赴こうという意思――それはまた,まだ誰も触れたことのない「Terra Incognita―未知なる領域」へと足を踏み入れていこうとする意思と言い換えることができるかもしれません。
 つまり,山に登るという行為,とりわけ世界最高峰エヴェレストの山頂に立とうとする行為は,天を目指すアプローチのひとつのヴァリエーションとして位置づけられ,普遍的な意味を獲得します。作者はこう書いています。
 「画家や,芸術家が,その手で天に触れようとするように,物理学者や詩人が,その才能で天に触れようとするように,羽生もまた,その肉体をもって天に触れようとしているのだ」
 もちろん,たとえ天にいたる意思を持っていたとしても,誰もが天にたどり着けるわけではありません。ですから作者は,羽生丈二の,なにもかもを捨て去り,エヴェレストを目指す,狂おしいまでの魂のありさま―作者はそれを「獣」あるいは「鬼」と呼んでいます―と,それを実現するための準備と装備を,またその過程で立ちふさがる苛酷な自然を綿密に描き出していきます。つまり,行為や「もの」といった具体的なディテールで丁寧に描き込むことで,「意思」という,抽象的で,ときに実体さえも怪しまれるあやふやなものを肉付けし,圧倒的なまでの迫力を持った映像性を,読者の前に立ち上がらせることに成功しています。
 この物語は,「登山」というスポーツを描いた作品というより,「天に向かう意思」という芸術家の魂を描いた作品といえるかもしれません。

 さらに作者は,「天に向かう意思」の普遍性を,人間のものだけに留まらないものとして考えている気配があります。それは本編のオープニング・シーンを,マロリー隊に同行したオデルが,標高7900mの地点で三葉虫の化石を発見することで始めていることからうかがえます。太古,海中に住んでいた三葉虫が,数億年の歳月をかけて「天」の近くにまでたどり着いている――もちろんそこに,三葉虫の「意思」を云々することは,やや穿ちすぎなのかもしれませんが,人間の「天への意思」が,さらに大きな流れのようなものの中のひとつであることを思わせる,印象的な書き出しではないでしょうか。
 すべての生命は天を目指す――それはまた,この作者の独特の仏教的宇宙観とも相通じるものでしょう。

 『瑠璃の箱船』『聖楽堂酔夢譚』『純情漂流』『絢爛たる鷺』という,作家・夢枕獏の精神的彷徨を描いた私小説的諸作品を,他人事ならぬシンパシィをもって読んできたわたしとしては,そのたどり着いた「頂」としての本書に深い感銘を覚えます。

00/09/03読了

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