夢枕獏『瑠璃の方舟』文春文庫 1998年

 「ぼくはいったい何者なのだろう?」“ぼく”は,自分でもつかみきれないモヤモヤを抱え込んだまま,小説家を目指す。そんなとき,“ぼく”の前に河野城平が現れた。将棋についてはプロ級の腕を持つ彼も,小説を書いているという・・・。

 作家さんというのは,多かれ少なかれ,自己陶酔的な面を持ち合わせているようです(人間誰しも,なのかも知れませんが)。この作者の小説風エッセイやエッセイ風小説,あるいは他の作品の「あとがき」などを読みますと,この作者の場合,とくにその傾向が強いように思います(「あとがき」で「この作品はぜったいおもしろい!」と堂々と書いてしまう作家さんも,けっこう珍しいのではないでしょうか(笑))。
 しかし,この作者のナルシシズムはけっして不快なものではありません。むしろその直截さがかえって心地よいです。

「いや,きっと,日本の,あのぼくの部屋のぼくの机の前。もっと正確に言うなら,まだ何も書かれていない,なにも記されていない白い原稿用紙の前こそが,このぼくの場所なのだ。
 ぼくがこの地上にいるべき,唯一の場所。」

 まともに口にしてしまえば,思わず照れてしまうようなセリフさえも,この作者の文章の中では,妙に「はまって」いて,読んでいて「ふむ,ふむ」と納得してしまうようなところがあります(もっとも,「そこがイヤ!」という人もおられるのでしょうが)。
 結局,彼のナルシシズムには変なイヤミも,屈折もなく,ストレートに伝わってくるとことがあるように思います。それは誰しもが持っていて,それでもなかなか口に出せず,もしかすると日々の生活の中でついつい見失いがちなものなのかも知れません。そのナルシシズムはきっと,「矜持」という言葉に置き換えることのできるものなのでしょう。

 物語は,“ぼく”が大学生の頃から,小説家になることを,というより「書くこと」を決意し,デビューし,流行作家となり,現在にいたるまでを描いています。この作者の代表作である『ねこひきのオルオラネ』『魔獣狩り』などといった作品の「誕生秘話」というほど大げさでないにしろ,それらの作品の成り立ちみたいなものを知ることができますし,また将棋の“真剣師”の世界を描いた『風果つる街』なんかにもリンクしてくるのでしょう。そういった意味で,ファンにとっては,なかなか楽しめる内容です。

 ところで作者は,「文庫版あとがき」の中で,この作品は「私小説風」であって,「風」のところを強調しています。ですから「嘘やでっちあげをたくさんちりばめてある」そうです。いったいどこまで本当で,どこまで「嘘やでっちあげ」なのか,その曖昧さが歯がゆくもあり,おもしろくもあります。そこらへんもまた(少なくともファンにとっては)本作品の魅力のひとつなのかも知れません。あんな情熱的で(それでいてちょっと滑稽な)恋をしたんでしょうかねぇ,この作者は・・・。

98/04/18読了

go back to "Novel's Room"