夢枕獏『あとがき大全 あるいは物語による旅の記録』文春文庫 2003年

 「ひとつの旅がすめば,次の旅の準備を始めねばならない。それが,旅を志した人間の運命(ルール)なのだから」(本書『上弦の月を喰べる獅子』あとがきより)

 1979年から1990年まで,作者が書いた単行本・文庫本の「あとがき」をまとめた1冊(ただし一部「序」「まえがき」など含み,またイメージ・レコードの解説やマンガ化作品の「あとがき」も入っています)。

 冒頭の「解説」で北上次郎が書いているように,なんともユニークな企画です。評論家とか,あるいは評論家気質に富んだ作家の「あとがき」であれば,それらをまとめることで「評論集」みたいな本はできあがりますが,この作者の場合,そういった類の志向は持ち合わせていないようです(もっとも格闘技に関してはその限りではありませんが)。とにかく「おもしろい物語を書きたい!」というベーシックな欲求の延長線上として,「おもしろい「あとがき」を書きたい!」という,いわばこの作者のサービス精神の発露と言えましょう。
 ですから,ある意味,この作者の「芸風」のひとつと呼べなくもなく,また,そこには「照れ」や「気取り」も当然入っているのでしょう。しかし「物語」とフィルタを通じていない分だけ,この作者特有の,ナルシスティックなまでのストレートな物言いは,「芸風」を超えて,より直裁に「作者の姿」が出ているように思います。

 そして(これまた北上次郎も書いていることなのですが),年代順にまとめられた「あとがき」を通して読むことによって,夢枕獏の作家としての軌跡をたどることができるようになっています。それも,「後から振り返って」というようなものではなく,本が出るたびに「その場その場」で書いてきたものですから,より臨場感があります。またそれゆえに,ときに「繰り返し」もあれば「矛盾」もある。けれども,だからこそ作者のその時点での思いや志向,弱音,逡巡,決意が生々しく現れています。
 さらに,これらの「あとがき」が書かれたのちに,『瑠璃の箱舟』『聖楽堂酔夢譚』『純情漂流』『絢爛たる鷺』という,スランプの中での彷徨をまとめた自伝的フィクションあるいはエッセイ作品へとつながっていくことを考えると,より感慨深いものがあります。
 『魔獣狩り』のヒットで「流行作家」となったがゆえに抱え込むことになった膨大な仕事量,身体を壊しながらも,とにかくプロとして「書く」ことにこだわり続ける作者,その最中に心に芽生える「旅へのあこがれ」,「流行作家」ではない夢枕獏が書いた『上弦の月を喰べる獅子』の10年かかっての完成…各「あとがき」の中には,のちのスランプの「芽」が(もしかすると当人が無自覚なままに)入り込んでいるように思えます。
 そんな中で,わたしが非常に興味を持ったのが,『キマイラ鳳凰編』の「あとがき」の一節。
「おれはさ,少し恥ずかしいんだが,言ってしまうと,おれのレベルをもう少しでいいから,あげたいのである」
「知識という質のエネルギーというか,パトスでないそういう知のパワーをもっと欲しくなっちまったんだ」

 「物語を見捨てないために」いや「物語から見捨てられないために」新たな「武器」を得ようというこの作者の決意…この「あとがき」に記された軌跡の中には,スランプの「芽」が含まれているのと同じように,そののちの再生へと至る「種子」もまた,すでに宿っていたように思います。

03/07/21読了

go back to "Novel's Room"