平成18年11月、今和泉島津家墓地の測量調査に伴い、風化の著しい7号墓と10号墓の墓石の保存処理作業が行われました。
その際、墓石に納められていた木箱に記されていた文字や遺髪、墓の形態などの検討から、従来、3名の子供の合葬墓とされていた7号墓が、2代忠温の墓であることが判りました。また、2代忠温の墓とされていた10号墓が、実は忠温の正室の墓であったことも明らかになりました。
また、12号墓は忠厚の正室の墓、14号墓は忠喬の側室の墓、6号と11号墓は忠厚の側室の墓である可能性が高いと考えられます。
篤姫が下げ渡したとされる手あぶり
今和泉島津家の墓地には、初代の忠郷から6代目の
篤姫の墓は、徳川家の菩提寺である上野の寛永寺にありますが、霊廟は非公開です。
今和泉鳥山生まれの「宮田
明治に入り、篤姫は、愛用していたこの手あぶりを妙
写真提供 馬渡成貴氏 ※無断複製・転載を禁ず。
篤姫の父忠剛(5代)
篤姫の兄忠冬(6代)
忠厚の正室
忠厚(3代)
今和泉島津家の館は、現在の今和泉小学校にありました。初代の島津
跡地には当時をしのばせる石垣と手水鉢や井戸が残っています。今和泉島津家の本宅は、現在の鹿児島市大龍小学校西隣にあたり、4600坪の敷地があったといわれています。
三家の関係を相関図にしてみました。島津
家は関が原の戦でこそ徳川と敵対しました
が、その後は、婚姻関係を築き密接な関係
を保っていきます。
『斉彬公史料』には、山川や吉野、佐多などの薬草園で作られたレイシやリュウガンの実を蜂蜜漬けにして大奥の篤姫のもとに送ったことが記されています。また、篤姫は薩摩の赤味噌をたいへん好んだらしく、大奥から薩摩に赤味噌を分けてほしいとの書状も女中の間でかわされています。ふるさとの味は篤姫の心をなごませたのでしょう。
篤姫はビワが好物であったとも伝えられ、寛永寺にある天璋院篤姫の霊廟の周辺には、ビワの木が3本植栽されています。
寛永寺の方々は、霊廟を掃除する際、ビワの種が落ちていると「きっと、天璋院篤姫様がビワを木からもぎられ、召し上がったのであろう」と話すことがあるそうです。
山川薬園跡のリュウガン
JR薩摩今和泉駅の北西約200mに建てられています。祭られている神様は豊玉姫命で、通称デメジンサーと呼ばれています。棟札の一部には元禄8年(1695年)のものがあり,島津藩主第20代綱貴公を守るために地元の造営人たちが「主君を敬い,民を愛し、災難が起こらないように」、また「長生きして子孫に恵まれ、それぞれの願いが叶うように」という思いを込めて建てたと伝えられています。
篤姫もこの神社を訪れたのでしょうか。木立の中にひっそりと佇む神社は、現在も地元の鎮守の森です。
昭和56年、今和泉島津家の菩提寺である「光台寺」の山門にあったと思われる仁王像が岩本地区の畑から見つかり、長い間、橋牟礼川遺跡公園
に仮置きされていましたが、平成19年6月、豊玉媛神社の境内入り口に移設され、およそ140年ぶりに地元に里帰りしました。
豊玉媛神社
尚古集成館所蔵※無断複製・転載を禁ず。
この火薬入れは、第4代今和泉島津家当主島津忠喬公が晩年、家臣団の一人秋山佳長に遺品として授けた品といわれています。側面にあしらわれた百足の模様は、甲州流軍学の影響と考えられます。戦国時代の甲斐武田氏の兵法は理想とされ、江戸時代になって全国の諸藩に取り入れられました。その武田氏の旗指物の一つにこのような百足を現したものがありました。
※甲州流軍学・・・平安時代から戦国時代にかけて活躍した甲斐国(現在の山梨県)の武家、武田氏の戦術は理想とされ、江戸時代になって大成された。その兵法のこと。
今和泉島津家屋敷があった周辺には、江戸時代の風情を残す町割が今も残っています。また、今
和泉島津家第3代の忠厚と第4代忠喬が隠居した屋敷の門構えが現在も残っています。
今和泉小学校の敷地内には、今和泉島津家の別邸に伴う井戸が残っています。周辺を発掘調査した結果、かまち石と石畳の一部が残っていることが判りました。井戸の造りやその向きが、別邸を囲む海岸の石垣と平行していることからも当時のものであることが確認されました。
10号墓の解体状況。墓石の中
には木箱が納められていた。
10号墓の木箱。側面に「身心
舎利」の文字。中には女性の
ものと思われる遺髪が。
7号墓の木箱。中には金属製の
箱が。箱の側面に「秋八月」
忠温の没年は安永7年8月25日
女性墓
忠喬(4代)
忠喬の子
卿静(萬吉)
忠喬の子
萬千代
女性墓
忠温(2代)
女性墓
忠郷(初代)
和泉家招魂碑
忠温の
正室墓
篤姫の父忠剛の墓
もともと、和泉家は、鎌倉時代に第4代当主島津