第3展示室
歴史劇場
第2展示室
第4展示室
「日本近代考古学の父」と評された京都帝国大学の浜田耕作博士は、橋牟礼川遺跡(当時は指宿遺跡)から縄文土器と弥生土器が一緒に拾われたことを知り、大正7,8年に発掘調査を行いました。

当時、2つの土器の違いは、使っていた民族が違うからだという説がありましたが、この調査によって、
開聞岳の火山灰の下から縄文土器が、上から弥生土器が出土することが明らかになり、2つの土器の違いは、時代差によるものであることが証明されたのです。この発見によって、橋牟礼川遺跡は国指定史跡に指定されました。
縄文土器と弥生土器の時代差を日本で初めて証明
国指定史跡 指宿橋牟礼川遺跡

COCCOはしむれに隣接する橋牟礼川遺跡。大正13年に国指定史跡に指定され、現在約2ヘクタールが史跡公園として整備されています。公園内には、8世後半頃の竪穴式住居を4棟復元。また、貝塚や地層を見学できる展示施設もあります。館内の展示とあわせてご覧ください

古代隼人のムラを再現

橋牟礼川両岸にある地層展示

古代隼人が築いた貝塚

大正8年の調査風景
古代隼人の封印を解く

「隼人」が初めて史実に登場するのは、西暦682年の記録です。それから9世紀の初めまで、当時の政府と衝突を繰り返していたことが明らかになっています。古事記や日本書紀の説話にも異端の民として「ハヤト」あるいは「クマソ」といった呼び名が登場します。
南九州の人々がなぜ「隼人」と呼ばれ異端視されたのか、謎はまだ明らかになっていません。
橋牟礼川遺跡では、874年の集落と5~6世紀の大集落が見つかっています。ちょうど「隼人」やその祖先、子孫にあたる人々のムラです。
この遺跡には「隼人」の実像に迫る手がかりが埋もれているのです。


約1500年前の古墳時代のムラを実物大で再現。光と音の演出で当時の1日を追体験できます。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代の南九州の文化を紹介。

地層から抜け出してきた縄文人がお出迎え。どうぞ、握手をしてみてください。

約2万4千年前の姶良カルデラの噴火をCGで再現。この噴火で鹿児島湾とシラス台地ができました。

古代隼人VS朝廷。隼人達がたどった運命は・・・
大型模型と映像が一体となった橋牟礼川遺跡発見のドラマをご覧下さい。
第1展示室
シンボル展示
IBUSUKI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM

東洋のポンペイ 橋牟礼川遺跡
西暦874年3月25日の夜、開聞岳が大噴火し橋牟礼川の集落は火山灰で埋もれてしまいました。「日本三大実録」という古文書にある開聞岳噴火の記録と発掘調査の成果が一致して、埋没した日が明らかになったのです。
  
発掘調査の結果、降り積もった火山灰の重さで倒れてしまった建物跡や畑の跡、道の跡などが見つかり、火山灰の下には、当時の集落がそのまま眠っていることがわかりました。