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成川十一面観音座像および石殿
この十一面観音座像と石殿は,永禄9年(1566),成川一帯を治めていた鎌田政成によって造られました。 木立の中に立つこの石殿は,高さ約104cmで,屋根の正面と軒に銘があります。石殿のなかには,十一面観音座像を彫った板石が納められています。屋根正面の銘文には「十一面観音を建立し奉る。願主は,鎌田但馬守法名松月宗鶴居士,東善坊をして3・7日この瀧にこもらしめ, 一日三度ずつ瀧に祈らる。成就のとき,成川中門に水かかり侯なり。永禄九丙寅三月日」とあります。もともとこの文化財は,成川大坪にありましたが,もとの場所が崩壊して文化財もなくなってしまうおそれがあったため,平成16年2月に現在地に移設しました。
成川板碑は,鳴川(成川)一帯を治めた鎌田氏の居城跡と伝えられる高台にあります。「西殿」と呼ばれるこの周辺には,今もなお,城の「空堀」と思われる跡が残っています。板碑には,戦国時代の天正4年(1576),鎌田政成が,観音が祀ってある西国33ヵ所の霊場(今の近畿地方あたり)を巡礼したことが刻まれています。戦国の世に,遠く近畿地方にまで巡礼した政成の信仰の深さが偲ばれます。指宿地方のこの時代の板碑は大部分が角柱型ですが,成川板碑は,関東地方の板碑によく似て薄型です。
明和8年(1771),成川下春の二才中(15,6歳~24,5歳の青年達)が造ったものです。「下春」とは,現在の下原ことです。田の神石像をみると,短いそでの上着にたすきを掛け,下着は裁着けばかまを着けています。また,右手には小さなめしげ(しゃもじ),左手にはだんごのようなものをのせています。 薩摩半島の南端部には田の神石像は少ないのですが,均整のとれた安定感のあるこの石像は,古い田の神像の南限を示すものです。なお,この像は,成川の開田事業を行ったときの「水田稲作の守護神」として造られたものと思われます。
成川板碑
田の神石像

利永の力石

山川地区指定文化財
開聞地区の文化財
鰻地蔵板碑 
ひとくちメモ

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桜井神社木像銘文

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仏教では,「生命は,死後,生まれ変わる」と
説かれています。生まれ変わる行き先には

道・餓鬼・畜生道,修羅道・人間道・天道
の六つの世界(六道)があり,どこへ行くかは
人間である時の行いしだいで決まるのです。
そして,
どの世界に生まれ変わろうとも,いつ
かは死を迎え,別の世界(あるいは同じ世界)
へ転生する宿命からのがれることはできないと言われています。
六地蔵幢は,六種類の地蔵が六道を輪廻転生している生けとし生けるものを救うとする説から生まれたもので,室町時代に多く造られました。小川の六地蔵幢には,豪族と思われる法名「雲心浄秀上座」とその妻が生きている間の「現世安穏」と死後の「安楽国への往生」を願った文章,そして天文22年(1553)の年号が刻まれています。

正龍寺宝珠付角柱石塔婆と旧正龍寺跡墓石群

小川六地蔵幢
ソテツ自生地
山川薬園跡及びリュウガン
鰻地蔵板碑
小川六地蔵幢
正龍寺宝珠付角柱石塔婆
成川板碑
旧正龍寺跡墓石群
地頭仮屋跡石塀
成川十一面観音座像及び石殿
前田利右衛門墓石
河野覚兵衛家墓石群
桜井神社木像銘文
田の神石像
利永の力石
尾下の田芋田
成川南方神社神舞
利永琉球傘踊
浜児ヶ水のサンコンメ

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特別天然記念物 ソテツ自生地(竹山)  

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前田利右衛門墓石

 「正龍寺って,すごいお寺だったんだね。
 江戸時代,山川港には,色々な国の船が出入りしていたんだね。」

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●鰻地蔵板碑

山川ヘルシーランド

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●竹山
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 石塔婆とは,供養のために建てた石の記念碑のことです。この塔婆には,阿弥陀三尊・釈迦三尊・金胎大日如来を表す薬研彫(溝が V 字形の彫り方)の梵字が刻まれています。 塔婆には,「□源上人という人物が,戦国時代の永禄 10年(1567),山川に来て21日間滞在し多くの人々を集めて念仏講(仏の救いがあるようにと念仏を唱える集会)を行った」ことが刻まれています。また,この塔婆を造るために経済的な支援をした池田隼人助夫婦と網屋与柒左衛門允夫婦の名も刻まれています。(写真左上)
 
 旧正龍寺は薩州山川海雲山正龍寺といい,山本氏が創建したといわれています。寺が開かれた年代は不明です。 明徳元年(1390),京都南禅寺出身の虎森和尚がこの寺を再建しました。その後,多くの名僧を出し「薩摩文教の府」と称されました。 また,薩摩の代表的貿易港である山川港に出入りする外国船の外交文書の授受も寺の住職があたっていました。しかし,明治の廃仏毀釈で廃寺となり,貴重な史料などが数多く失われてしまいました。廃仏毀釈で散逸したものを集めたのがこの墓石群です。(写真右上)

浜児ヶ水のサンコンメ

ひとくちメモ

徳光小学校

●田の神石像

ひとくちメモ

「成川地区は,大昔の噴火口
の跡なんだって。

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地頭仮屋跡石塀

山川庁舎を取り囲む石塀は,江戸時代のもので,かつてここには山川郷の政治をつかさどった地頭仮屋(江戸時代の役所)がありました。石塀に囲まれた敷地は,187.92㎡あります。 庭の隅に高さ98cm・直径44cmの山川石の手水鉢が残っています。地頭仮屋には,政治全般を行う曖(郷土年寄ともいう)・事務や検察,訴訟などの仕事を担う横目・郷内の武士の指導や仮屋の警備を行う組頭の三つの役職が置かれました。 現在,北側と南側の石塀はもとの姿をとどめていませんが,東側と西側は大部分が残っています。
河野覚兵衛家墓石群

 
河野家は,江戸時代に薩摩藩の南方貿易に貢献した山川の豪商で,代々「覚兵衛」と称する家柄でした。墓石群の年代は,享保2年(1717)から文久2年(1862)にわたっていて,ここには,初代から7代までの歴代覚兵衛とその家族を含む12基の五輪塔が残っています。五輪塔の高さは,完全なもので208~230cmもあり,重量感あふれる造りです。また,「南無阿弥陀仏」の名号や多彩な文様が美しく彫り込まれています。これらの墓石群は,山川石の造型美と山川港の発展史を物語る証です。

山川薬園跡およびリュウガン

旧山川小学校敷地は,万治2年(1659)に開設された薬草園の跡です。 今も残るリュウガンは,その当時に栽培されたものといわれ,樹齢300年以上と推定されています。江戸時代,島津氏は山川・佐多・吉野の3か所に薬草園を設けて薬用植物の栽培に努めていましたが,そのうち最も古いのが山川の薬草園です。当時は,リュウガンのほかレイシ・ハズ・キコク・カンラン等が栽培されていました。リュウガンは,ムクロジ科に属する中国南部原産の常緑の樹木です。果実は直径2cmほどの褐色の球形で,乾燥すると干しブドウのようになり,強壮剤として用いられます。明治の終わりごろまでは,東京にあった島津邸へも送られていたと伝えられています。 

●山川薬草園跡,リュウガン

ひとくちメモ
 南方神社に祀られている神は,長野県の諏訪大社と同じく日本神話に登場する建御名方命とその妃神である八坂刀売命です。かつては,南方神社も諏訪神社と呼ばれていました。この南方神社には,神舞が伝わっています。いつ始まったかはっきりしませんが,慶安2年(1649)に島津光久の前で演じられたとの記録があります。明治の頃までは,33種目の演目がありましたが,現在は,十数種目が舞われます。中でも,内侍舞(ねいめ)と呼ばれる演目は,大変古い時期の舞いの型を受け継いでいるといわれています。内侍とは,平安時代に宮中で働いていた女性の役職である「内侍の司」から生まれた言葉といわれています。世界遺産でもある広島県の厳島神社の巫女も内侍と呼ばれていました。この巫女の舞を内侍舞と呼んでいたのです。以前は南方神社境内で奉納されていましたが,今は3年目ごとに,新暦10月28日のホゼ(例祭)に近い日曜日,成川区民センター下の広場で舞われます。

成川南方神社神舞

利永・琉球傘踊

 利永は,延享元年(1744),今和泉郷の村として設置されるまでは,頴娃郷仙田村の一部でした。また,地理的には,山川港と開聞神社を結ぶ道の途中にあたります。山川港に滞在した琉球使節一行が開聞神社に参詣する際の道筋にあたるため,一行に接する機会も多かったことが想像されます。沖縄には,かつて琉球王国が薩摩藩に支配されていた時代,使節団が,薩摩に向け琉球を出発し,山川港に入港するまでの旅の模様を描いた上り口説(ぬぶいくどぅち)という舞踊が残っています。利永・琉球傘踊は,その歌詞から考えると,沖縄の 「上り口説」等が源流と考えられています。



浜児ヶ水のサンコンメは,1月7日の午後に行われる浜児ヶ水地区の伝統行事です。バッチョ傘をかぶった15歳に
る少年が,2メートルほどの太い孟宗竹の中に硬貨を詰めて担ぎ,ぐるぐると回って勢いよく地面に放り投げます。やがて竹が割れ始め,その割れ目から硬貨がこぼれだすとこの瞬間を待っていた人々は,争うように硬貨を拾います。拾った硬貨は,その年の無病息災,五穀豊穣を祈るため,自宅に持ち帰り神棚に供えます。集落を回りながら,大人たちは見物人の顔にヘグロ(黒い煤)を塗りつけ,ナマスや焼酎を振舞います。納骨堂前に来たところでサンコンメは終わり,海岸に下りて「鬼火たき」がはじまります。サンコンメに似た行事は,昔は南薩の海辺の集落でもよく見られ,漁業に関連した風習とも言われています。目が廻るほどくるくる舞う様は,船に慣れない若者が船に酔って気分が悪くなった様子を表現したものであるとか,船酔いに慣れるための通過儀礼的なものではなかろうかという説からです。浜児ヶ水のサンコンメは,かつては漁村として栄え,やがて農村へと移り変わっていった集落の歴史や当時の若者たちの通過儀礼をばせ伝統行事です。

 昔,利永の青年舎の庭には,大小2個の卵形の石があり,若者たちは,折にふれ,この石を持ち上げ,担ぎ,持ち運ぶ競争をしていました。古来,石には,神が宿るとも信じられ,素朴な信仰の対象とされてきました。石を高い所に投げ上げる,あるいは,石を持ち上げたときの軽重の感じで占いを行う「石占」が,しだいに若者の力試しに変化し力石になったと考えられています。利永の力石は,重さ97.6kgの浜石です。現在は,大きい方だけが集落センター庭に保管されています。力石の風習は,若者たちにとって通過儀礼の一つでした。力石くらいの重さの物(ほぼ米俵ほど)を持ち運べることが,一人前の証だったのです。
江戸時代,南島航路の船員であった利右衛門は,宝永2年(1705),琉球からサツマイモの種芋を持ちかえり, ふるさとの岡児ヶ水に植えました。鹿児島県本土に初めてサツマイモが持ち込まれたのです。種子島にサツマイモがもたらされてから七年後のことでした。利右衛門のサツマイモは立派に育ち,近隣の村々はもちろん国内各地に広まり,大切な食料として多くの人びとを飢餓から救いました。明治30年には,利右衛門の功績をたたえて徳光神社が建てられました。

●成川十一面観音坐像及び石殿

●成川板碑

尾下地区の田芋田

尾下地区には「田芋」という里芋によく似た芋が栽培されています。田芋は水田のような水のあるところに栽培され,小芋ではなく親芋を食べるのが特徴です。田芋は熱帯性タロイモの中まで,種子島以南の南の島々に広く分布しています。サツマイモの伝来以前は,南西諸島の人々の主食であったといわれています。かつては,新永吉や成川でも栽培されていましたが,現在は行われていません。
鰻 池
●小川六地蔵
ひとくちメモ
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鰻池の畔から,やや東に上がったところにある鰻地蔵板碑は,南北朝時代の元徳4年(1332)に造られたもので,指宿市では最も古い板碑です。板碑の表面には「地蔵菩薩」を示す梵字が刻まれています。南北朝時代,日本には天皇が二人いて,日本各地で南朝と北朝に分かれて争いが起こっていました。この板碑に刻まれた年号「元徳」は,北朝の年号であるため,この地が北朝側の勢力圏であったことを示しています。鰻地蔵板碑は,指宿の仏教信仰のありかたを示す最古のもので,また,当時の世相が反映された大切な文化財です。

「西郷隆盛さんも湯治に来ました。
   風呂上りの温泉卵がたまりません。」

ひとくちメモ

●前田
利右衛門墓

●地頭仮屋跡石塀

 「力石は,利永の集落センターの前庭にあります。

大山桜井神社には,クスの木で造
られた男女各一体の木像があります。
男像は高さ43.8cm,幅は20cm,厚
さは16cmで,女像は, 高さ33cm,
幅は18cm,厚さ13.5cmです。木像
の背面には,天正6年(1578)に銘文が
書かれています。 銘文には,「諸願成就処」(諸々の願いが成就する処)という一文と当時,この地を治めていたとみられる長井播磨守實正の名前や大山と小川の大宮司衆(神社での祭祀に奉仕する者)の名前,そして仏師の名前が記されています。

「山川ヘルシーランドの露天風呂から
        見える竹山も格別です。」

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 竹山は標高約200メートルの山です。竹山はソ
テツの自生地の北限として有名です。ソテツは,
2億9000万年前頃に誕生した裸子植物の一種で,大昔の姿をとどめています。ソテツは,ほとんどが熱帯または亜熱帯に生える植物ですが,そのうちの一種だけが日本南端に達していて,その分布は,八重山列島,沖縄諸島,奄美諸島から九州の南端までの範囲になります。自生の北限地帯として指定されているのは,薩摩半島の南端(坊津・山川)と大隅半島の南端(佐多)及び東端の内之浦です。
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指宿地区の文化財
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「小川の集落センターの近くにあります。」