濵﨑家家系図によれば、濵﨑家の祖先は、鹿児島神宮の神官を務めた人物とあります。今からおよそ350年前、訳あって十二町の湊に転居したらしいのですが、名前やそれ以前のことなどは分っていません。
 第2代を杉兵衛、第3代を新平、第4代を太兵衛といい、海運業の基礎を築いたといわれています。第3代新平の時代に、初めてヤマキの商号を掲げたと濵﨑家には伝えられています。

 杉兵衛・・・宝永五年(1708)没
 新平・・・・・元文五年(1740)没
 太兵衛・・・宝暦五年(1755)没
 太平次ら海商が利益を上げた事業には、砂糖の運送の他に、海外貿易がありました。
 もともと、戦国時代から海外貿易に熱心であった薩摩藩は、慶長14年(1609)、琉球に侵攻し、以降、奄美群島を直轄地に、琉球の貿
易も管理下におき、唐(中国)などとの貿易を積極的に行っていました。
 やがて、キリスト教の布教と海外貿易によって諸大名が経済力をつけることを警戒した幕府は、鎖国体制をしき海外貿易を幕府の管
理下において厳しく統制します。しかし、これまでの経緯から、琉球貿易については、薩摩藩が引き続き窓口となりました。薩摩藩は、
琉球を通じて禁制品であった昆布などを扱う海外貿易を密かに行ったようです。それは、幕府の厳しい統制のもと、藩財政を建て直し、
豊かなの藩へと生まれ変わるためにとった薩摩藩の苦肉の策だったとも言えます。 

 濵崎家は、第6代から太平次を名乗りました。第6代太平次は、島津家の別荘であった長井温泉場の外郭や石
塀等を献上した功績が認められ、島津斉宣から、稲荷丸の手形を受け、海運業をさらに発展させたといいます。
第6代太平次は、十二町湊に馬ノ湯を設けました。ヤマキが全盛を極めていた頃、そこで働いていた人々が毎日
たくさん入浴に来るため、湊ノ湯とも呼ばれたそうです。地域の人々も朝夕に馬ノ湯を利用し、牛馬、器物、衣
類などを洗い恩恵を受けたといわれています。後に馬ノ湯の石畳は、乗船寺建立の時の土台として再利用された
と伝えられています。また、第6代太平次は、湊地区の道路を碁盤の目状に改修したとも伝えられています。

 太左衛門は、大変信心深い人物だったようで、寛政10年(1798)魚見岳南面の岩窟に私財を投じて風穴神社を創建しました。天保14年(1843)に刊行された「三国名勝図会」にも「風穴祠 拾九町村、東方、魚見峯南面の下の岩窟にあり、天智帝田良浦に御着船ありて、風穴に至り、神楽を奏ぜられしといふ、十月中丑日、風祭の式あり寛政十年、石祠を建つ。」とあります。

 太左衛門は、長井温泉に湯権現も創建し、指宿の温泉開拓の拠り所としました。天保2年(1831)、島津家の別荘が長井温泉から二月田温泉に移った際、湯権現も一緒に遷座しました。また、湊地区にある稲荷神社の創建も太左衛門が行ったと伝えられています。現在、稲荷神社の境内には、第8代太平次の功績を称える碑が立てられています。

IBUSUKI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM

 天保14年(1843)、薩摩藩は、殿様湯前を流れる二反田川の護岸工事を行いました。地元には、島津の殿様が屋形船で湯治に来
た際、船が二反田川に入ると殿様湯まで両側から馬で引いたとの話が残っています。その工事と同時に、指宿港の北側約1Kmのと
ころにある二反田川の河口、通称「潟口」には船溜りが築造され、現在もその一部が残っています。昭和9年に刊行された『鹿児島県
維新前土木史』によると、総延長600m、高さ3mにわたって石が積み上げられた大工事だったようです。
 天保年代頃まで、この潟口から湊までは砂丘が続き、入り江があったといわれています。


昭和9年に発行された『海上王濵﨑太平次傳』(宮里源之亟・澤田延音編集)をもとに、濵﨑太平次とゆかりの文化財を紹介します。

 太平次の船は、湊浦のほか、藩港でもあった山川港にも頻繁に入港していたようです。
「ヤマキの船は常に山川港に投錨していたのを私は子どもの時分よりしばしば見たことがあった。あの頃のヤマキの大船は、35反
帆というものもあったが、とても素晴らしい船で、恰も小山のごとき観を呈していた。」
と『海上王濵﨑太平次傳』には古老の話が紹
介されています。

藩は、国産品の販売に関して、直轄地である奄美群島において島民の犠牲を省みない非情な黒砂糖の生産を強い、専売体制を強
化しました。また。唐物貿易拡大の影で密かに海外貿易を行い、利益を上げたといわれています。専売品の高値を獲得するには、適量
を適した時期に市場へ出すことが重要な条件です。そのため、藩内の海運業者で調達船団を組み回漕させる方法がとられました。

 主要生産地である奄美群島は海上交通の船だけが唯一の運送手段であり、藩にとって海運業の育成は絶対不可欠なものとなりま
す。こうした調所の政策を支えたのが、太平次や黒岩藤兵衛らの海商たちでした。

 奄美群島においては、砂糖以外の生産・製造が一切禁止され、その見返りとして島民たちが必要とする日用品や食料品などの諸物
資は、本土から輸送されていましたが、十分な量ではなく物資は慢性的に不足していたといいます。海商たちは、藩から委託された量
以上の諸物資を密かに積み込み、それらを大量の砂糖と交換、低価格で仕入れた砂糖を大阪方面等で数倍~十数倍の高値で売り
利益をあげたといわれています。
 
 今のところ、調所と太平次がいつ、どのようなきっかけで知り合ったのかを示す資料はありません。しかしなが
ら、『海上王濵﨑太平
次傳』によれば、「調所広郷履歴概略」の中に「天保の末頃から、大阪方面などで砂糖が盛んになり、江戸の相場が下落した際、大阪
の砂糖商人の何らかの策略を疑った調所が、内々に太平次に命じて砂糖を買い占めさせたが、すぐには相場が良くならず、太平次も
損害を被った」との主旨の記録があります。
また、調所は、度々、太平次を自宅に招き、藩の財政改革について意見を求め、それに対して、太平次も忌憚無く意見を述べたとの古
老の話が伝えられています。

 文久3年(1863)、太平次は大阪で客死しました。享年50歳。調所の死から、15年後、斉彬の死か5年後のことでした。太平次が亡く
なって5年後、明治維新が起こり、日本は近代化への道を歩み始めます。

『海上王濵﨑太平次傳』によれば、孝明天皇が病床に侍医を遣わせたとあります。また、遺骨は、大阪市西区にある竹林寺に密葬さ
れたと記されています。指宿市湊南墓地にも、濵崎家累代の墓と第8代太平次の墓がありました。市営小田公苑墓地の開設に伴い、
昭和30年湊南墓地は廃止され、濵崎家の墓は小田公苑墓地へ移設されましたが、第8代太平次の墓だけは、生まれ育った湊地区に
留めることとなり、湊南墓地廃止後造られた湊児童公園の北隅に移設されました。

 指宿市十二町湊の海岸沿いの一角にあったと言われる造船所は、東西70m、南北100m、広さは7000㎡もの大きさを誇りました。その場所は、はっきりとは特定されていませんが、現在の指宿港の南側付近といわれています。

 造船所は、一度に3隻を建造する能力を有し、約300人の船大工が働いていたといいます。造船所の中には、材木小屋、飯炊き小屋、鍛冶屋、船大工の住居と何棟もの建物が設けてあったといわれています。

また、次のような古老の話が伝えられています。
 「ヤマキの進水式の模様はなかなか盛大なものであった。まず式の当日はと言うと、初め太平次夫妻が新造船に乗られるとその次に船長、船大工棟梁という順に続々乗っていました。船が少し沖に向けて出るとたちまち甲板から餅を365個と一文銭をたくさん混ぜたものを陸上の観衆目当てに撒布されるのが進水式の常例となっていたことを記憶しております。」  

 太平次は、度々、藩に献金をしていたと伝えられています。

○嘉永2年(1849)、二月田御茶屋(殿様湯)の建立、新田地区開発に伴う5つの神社の建替え、谷山筋整備に伴う今和泉道の引き直し引き直しに1500両の献金。
○文久2年(1862)、藩のミネヘル銃購入に伴い、20000両を献金。

また、濵崎家家系図には、調所が藩主にあてた手紙の中に
「揖宿郡湊浦之太平次が、お国の財政改革の為に御調達いたした金子は一再ならず、あまつさえ御軍備の後ろ盾として私財を御当家に融通つかまつり御奉公の心掛けは皇国も本の御為であり、かつ又湊浦へは上様におかれましても御感ななめならず、町家の手本にも相成り候」と記したとあります。

 濵﨑家と島津家の関係は、第5代太左衛門に始まって以来、太平次の時代にも深く結びついていたようです。
 弘化3年(1846)、島津斉彬は、二月田温泉に湯治に訪れていますが、その際、別邸が火災に見舞われ、湊の太平次宅に避難したとの記録があります。また、嘉永4年(1851)、薩摩半島沿岸を巡見した斉彬は、33日間の日程のうち22日間指宿に滞在し、太平次の豪華な接待を受けています。
 

 薩摩藩の財政再建には、濵崎家の財力が不可欠だったのです。

 第8代太平次は文化11年(1814)、濵崎家の長男として生まれました。家業が傾きかけていた14歳の時、ヤマキを復興すべく商船に乗り、琉球に向ったと言います。第7代太平次が亡くな った後、ヤマキの発展には南島貿易が不可欠と考えた第8代太平次は、摺ヶ浜の富豪笹貫長兵衛から資金を借り事業に着手、徐々にヤマキを立て直していきました。

誕生の逸話


 太平次には、姉のヨシ子、弟の弥兵衛、弥七、和兵衛、そして妹とたくさんの兄弟がいました。母の名はセン子。湊の高崎新右衛門の娘でした。母セン子は、大きな帆船が白い帆を掲げて堂 々と入港する光景を夢に見て、その後、間もなく懐妊、太平次を生んだと伝えられています。

 他藩の5倍近い家臣団を抱え、生産性の低い火山灰性の土壌で米作に適した土地が少なく、その上、台風や土砂崩れ、火山噴火などの災害が多い薩摩藩は、農業が貧弱な藩で、藩の財政はもともと厳しいものでした。幕府から命じられる参勤交代や木曽川治水工事などの様々な御手伝普請、度重なる火災、さらには、島津重豪の開化政策や婚姻政策で、財政状況はさらに悪化、藩の借金は500万両にも達していました。
 文政11年(1828)、重豪から財政改革を命じられた調所は、①国産品の販売強化と唐物貿易拡大による収入の増加②藩内諸施設の改善・整理などの合理化 ③借金の250年賦返済(借金の返済期間を250年に無理やり書き換えたと言われている)を柱に改革に乗り出します。

 太兵衛の嫡男、第5代の太左衛門は、海運業をさらに発展させ、寛政年間(1789-1801)には九州一の富豪となりました。
 寛政10年(1798)保養のため第9代藩主斉宣が指宿村の長井温泉(現在の弥次ヶ湯付近と言われるが正確な場所は不明)を訪れた際、太左衛門は、十二町の自宅内に「御座間」と称する貴賓室を新築し、島津家の別荘としました。このことがきっかけとなって、島津家と濵崎家の関係は明治まで続くのです。

「濵﨑家家系図」鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵

 『海上王濵﨑太平次傳』によれば、この本宅の広さは、
東西25間(約45m)、南北30間(約54m)で、面積は2
反半(2480㎡)もありました。
 図面左下には「十畳 島津氏ノ御座ノ間」と記された一
室が描かれています。

 歴代藩主は、長井温泉や後に二月田温泉に保養に来た
際には、必ず濵崎家のこの別荘に逗留したといいます

また、濵崎家は、屋敷の西側の通りを「御本陣馬場」とよ
呼び庶民の通行を固く禁じました。

第8代濵崎太平次正房墓

第8代濵崎太平銅像

『海上王濵﨑太平次傳』にば、「由来翁は、写真に撮影することは忌んでいたので、かつて一度も之に接したことは無かったとは遺族の話である」とあり、事実、太平次の写真は、1枚も見つかっていません。
 手がかりとしてあるのは、第9代の太平次と思われる人物の写真です。
 この他、次のような古老の話が残っています。
「太平次さんは頭の太くて顔も体もまた極めて太く。眉毛は長いほうで、眼球はクルクルとして大きゅうございました。」
「太平次さんは肥え太った性で、丈はあまり高いほうではなく、いささか金満家振った態度も無く、なかなかいい親方でございました。」

 度々、飢饉に見舞われた江戸時代でしたが、太平次は、幾度となく地元の人々を救済していたようです。『海上王濵﨑太平次傳』にば、次のような古老のエピソードも伝えられています。
「私たちが若い時は、もとより幼い時も飢饉に何度となく出会った。当時は金はあっても買う米が無かったため一方ならぬ困窮に陥った。それを見るに忍びず太平次さんは十二町湊の罹災者(約300戸)一同に前後3回に亘って施米されましたことは大正14年97歳にて死亡しました姑ツルさんの徒然のまま語っておられた昔話の一條でした。」

「第9代太平次と見られる写真」鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵

徳川家・島津家・今和泉島津家の関係
篤姫の祖父 忠喬の火薬箱
 潟口の船溜りの工事より、10年前の天保4年(1833)、第10代薩摩藩主島津斉興は、内庫金を使って、指宿市西方宮ヶ浜の海岸に長さ230m、高さ5mの防波堤を築かせています。工事は12月に始まり、翌年7月には完成しました。当時としては、県内最大級の離岸堤です。短期間のうちに、内庫金まで使いこの堤防を築いた背景には、太平次ら海商が密かに行っていた海外貿易に絡んで、山川、湊浦、に次ぐ「第3の港」としての役割があったのではとの見方もされています。
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宮ヶ浜の捍海隄(かんかいてい)

潟口の船溜り

 島津斉彬が二月田温泉の別邸に来遊した
とき詠んだ「指宿八景」の和歌の1つに
湊浦帰帆「おいて吹く 風にまかせて
かえるなり いつれの舟や さちそ多かる」
と、湊浦の様子を記した歌があります。

 太平次所有の帆船の母港であった湊浦。
 そのすぐ北側で行われた潟口の船溜りの
築造は、太平次の海運事業を後押しする
ものでもあったと考えられます。

篤姫の祖父 忠喬の火薬箱
今和泉島津家屋敷跡の周辺

「瑞応丸手形箱」個人蔵

「大黒帳」鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵

左の写真は、30反帆20名乗りの帆船と伝え
らる瑞応丸の手形箱と大黒帳の一部です。

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「氷砂糖壷」個人蔵

「徳利」時遊館COCCOはしむれ所蔵

調所笑左衛門広郷の銘がある手水鉢(揖宿神社)

「濵崎太平次翁生誕の地」の碑

湯権現

殿様湯跡

稲荷神社

頌徳碑

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「鳩倉」写真 鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵

「濵﨑家太平次指宿本宅略図」鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵

現在の御本陣馬場

濵崎の祖先が指宿に転居したきたと
き鳩を携えてきたが、これが後に繁
殖して倉庫にウヨウヨしていたと言
います。このことから、鳩倉と呼ば
れています。

 『海上王濵﨑太平次傳』には、太平次は34隻の船を所有していたとあります。20反帆を超える大型船が約10隻もあり、稲荷丸や松保丸は33反帆もありました。その数と規模は、当時の日本最大クラスの船団でした。

 太平次は、事業の拡大とともに、自らは鹿児島市潮見町の一角に移転しました。藩とのやりとりも、城下に近いほうが便利だったからでしょう。
 太平次は、県内では、指宿のほかに、鹿児島市と甑島に、県外では、琉球、長崎、大阪、函館に貿拠点を儲け、ロシア、中国、インドネシア、キューバなどに生糸・樟脳・椎茸・陶磁器・フカヒレ・貝類、寒天などを輸出したといわれています。




         

「濵﨑家太平次鹿児島屋敷と思われる写真」
              鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵