山田正紀『夢と闇の果て』集英社文庫 1988年

 この感想文は,作品の内容に深く触れているため,未読で,先入観を持ちたくない方にとっては不適切な内容になっています。ご注意ください

 「夢を見ずして,物語を語らずして,なんで島人が,民族が,人類がいきいきとした活力を得ることができようか……」(本書より)

 宇宙船“夢見る神(モルフエス)”号の生体維持カプセルの中で眠る一組の男女。彼らは夢を見続ける…終戦直後の沖縄での冒険を…薩摩藩支配時代の琉球での悲恋を…だが本当に“夢”を見ているのは彼らなのだろうか? 彼らもまた何者かによって夢見られているのではないだろうか? そして夢の中で繰り返し登場する“フユ”と“大頭(ウフチブル)”とは? 宇宙船が目的地に到着するとき,“夢”の真実が明らかにされる…

 まずは作品の感想に入る前に……本書の初出は1984年,文庫化はその4年後,1950年生まれの作者が30歳代,デビュー後10年目の作品だそうです。で,文庫カヴァに掲載されている「著者近影」が,じつに若い! いまやSF界,ミステリ界の「大御所」として,白髪混じりの顔写真を見慣れた昨今からすると,なんとも初々しいです(笑)

 この作者のSF作品を読み慣れたものにとっては,まさに山田SFお得意のガジェットが山ほど詰め込まれた作品です。たとえば,「人間にとって物語とは何か」という,作中において何度も問いかけられる問いは,フィクションと「現実」とが混交した世界を描いた『エイダ』に通じるものがありますし,また,その「物語」を圧殺しようとする大日本帝国薩摩藩との戦いは,どこか「神シリーズ」に近しい手触りが感じられます(あるいは『人喰いの時代』とも親和性がありますね)。そしてストーリィの後半に出てくるユング派心理学「集合的無意識」は,まさに『地球・精神分析記録』と同根のものといえましょう。
 そう「夢」「物語」「現実」の関係を,深層心理学や構造主義などの思想で換骨奪胎し,そこからSF的シチュエーションへと昇華させていくところは,まさに山田SFの独壇場と言えましょう。

 とくにこの作品において,作者のSF的イマジネーションが発揮されているのが,次の2点ではないかと思います。
 ひとつは,「夢見る/語る力」を持った沖縄の聞得大君(きこえおおきみ)語得大君(かたりえおおきみ)のふたりが,なぜ宇宙船“夢見る神”に搭乗したか,という理由です。使用する言語はもちろん,文化形態,思考様式さえも異なる生命体といかにコミュニケートするか,という難問を解決するために「夢」を用いているところです。その発想の奇抜さに驚かされます。つまり「第一夜 豚の王」「第二夜 海蛇の王」で描かれる「物語」そのものが,ひとつの「コミュニケーション」であるという設定が,じつに奇想に富んでいて楽しいですね。
 それともうひとつは,“フユ”に象徴される「現実」と,「夢・物語」との対立軸を,ラストにおいて,全宇宙におけるエントロピーネゲントロピーとの対立へと,拡大してしまう強引さ(笑) たしかに「物語」や「神話」は,「世界」を意味づけ,再構築していく作用を持っていることは,以前からわたしも考えていたことですが,それを一気にエントロピーに対抗するものまで引き上げてしまうというところは,まさにSFならでは「大風呂敷」と言えましょう。
 そしてその戦いの果て,物語=ネゲントロピーが,現実=エントロピーに対して,一定のカウンタとしての「力」を持ちつつも,けっして「完全勝利」は得られないというエンディングは,この作者の冷徹な,ときにニヒルな「世界観」の現れでもありますが,それでも「力」になり得る,というところに,作家としての(現代の「語得大君」としての)矜持が現れているように思います。

03/01/02読了

go back to "Novel's Room"