山田正紀『エイダ』ハヤカワ文庫 1998年

 詩人バイロンとの約束で書き上げられた,メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』。しかし彼女の創造したフィクション上の“怪物”は実体化していた。そしてコナン・ドイルのホームズもまた・・・。フィクションが現実を浸食し,改変していく世界。現実とはなにか? そしてフィクションとは? その背後には宇宙の存亡を賭けた,ふたつの“フィクション”の永遠の闘争が存在していた・・・。

 フィクションの,想像上の存在が実体化する,というのは,SFやホラー,ときにはミステリでも,しばしば見られるモチーフです。しかしそれは,「フィクション」なのでしょうか? 「フィクションが実体化するフィクション」なのでしょうか? 作中,登場人物のひとり,雨沢由真は言います。
「どんな人間も,まったくフィクションなしで,自分の人生を構築することはできないのかもしれない。人が,自分の人生をかえりみるとき,そこにはかならず“物語”が入り込んでしまう。・・・・・人間はフィクションなしでは生きていけない動物なのだ・・・。」
 「フィクション」「物語」というのは,人間が,自分自身を,さらには自分が生きる「世界」を意味づける行為だとわたしは思っています。ほとんどの民族が「創世神話」を持つのも,みずから生きる世界を「かけがえないのないもの」として,そしてその「世界」の中で生きる「自分」もまた「意味あるもの」として措定することだと思います。
 つまり,人は「フィクション」を介して「世界」と向かい合い,「自分自身」と向かい合っているのでしょう。そういった意味で,「フィクション」は「世界」をつねに創造している,ともいえるのかもしれません。そんな,人間の根源的な在り様を,「量子宇宙論」や「並行世界(パラレルワールド)」などを取り込んだSF的な設定で描き出しているのが,本作品なのだと思います。

 『悪魔の発明』でSF短編を読んだものの,この作者の新作の長篇SFを読むのはじつに久しぶりです。おまけに「フィクションと現実」というモチーフは,個人的にけっこう好きなだけに,楽しめました。とくに少々長めのプロローグといった,間宮林蔵とフランケンシュタインとの出会い,コナン・ドイルが聞くホームズによる“フランケンシュタイン殺人事件”など,読んでいてゾクゾクするようなところがありますね。途中でときおり出てくる「量子論的宇宙」というのが,どうもいまひとつ理解できないところがありましたが^^;;,作中で登場人物たちが繰り返す「現実とフィクション」の関係をめぐる問いかけは,SF的な衣装をまといつつも,ひどく真摯なものに感じられます。また,主人公のひとり「おれ」は,作者自身がモデルになっていると思われますが,彼の苛立ちや悩みなどは,この作者の初期作品の登場人物が抱え込んでいたものに共通するものがあるようで,懐かしさのようなものさえ感じます。
 う〜む,この作者,ミステリもいいけど,この作品のような本格SFをもっと読みたいなぁ・・・(でも,作中の「おれ」の「衰退していくジャンル」というSFへの思いは,読んでいて複雑な気持ちになりますね)。

 それにしても,作中,北杜夫の『幽霊』の冒頭の一節,
「どの民族にも神話があるように,どの個人にも心の神話があるものだ」
が引かれ,「おれが敬愛してやまない作家」と書かれているのを読むと,この作者の持つナイーヴな一面に触れたようで,しみじみとしてしますね。

98/06/02読了

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