馳星周『虚の王』カッパ・ノベルス 2000年

 「したくないことは腐るほどあった。やりたいことはなにもなかった」(本書より)

 女子高生の売春組織を支配し,渋谷で遊ぶ“ガキ”たちに心の底から恐れられるエイジ・・・彼は,一見,ひ弱でどこにでもいそうな平凡な高校生だった。兄貴分から,その売春組織を探るよう命じられたヤクの売人・俊弘の人生は,エイジと出会うことで狂いはじめる。虚ろな心を抱えて暴走する俊弘がたどり着いた場所とは・・・

 この作家さんの作品を読むのは,『不夜城』とその続編『鎮魂歌』『漂流街』に続いて4作目です。これらの作品と同様,本編もまた,暴力とセックスが渦巻く世界と,破滅へとひた走る狂気が描かれています。にもかかわらず,本作品は他の作品とどこか手触り,ニュアンスが違うように思えます。その違いはなにか,と考えてみると,それは「欲望の不在」ではないかと思います。
 「大金をつかみたい」「のしあがりたい」あるいは「生き(逃げ)延びたい」「復讐したい」という,ぎらぎらとした欲望が,登場人物たちの行動原理であり,彼らは,その欲望を満たすために,他人を裏切り,傷つけ,支配し,排除していきます。しかし,たとえどのような冷酷な手段・方法を彼らが採用するとしても,その根元にあるものは,わたしたちの心の底にもある生々しい欲望です。
 しかし本編では,その「欲望」が欠如しています。主人公渡辺栄司はこう言います。
「薄いガラスでできた花瓶があるとするじゃない・・・おれは絶対壊したくなるんだ。どんなふうに壊れるのか。壊れるとき,どんな音がするのか。想像しちゃうんだよ。想像しているうちに,どうしても壊したくてたまらなくなる。それで,壊しちゃうんだ」
 これは「欲望」でしょうか? わたしには「欲望」というより,もっと原初的な「衝動」とでも呼ぶべきもののように思われます。「欲望」には,その正邪はともかくなんらかの「目的」があります。今はまだ達成できていない,手にいれていない「なにか」という目標があります。しかし「衝動」にあるのは,それが充足できるかどうか,だけです。衝動を充足させることで,結果論的には「どこか」へ行くこともあるでしょうが,衝動そのものには目的や方向性は含まれていません。本編で描かれる暴力や犯罪は,まさにその「衝動」によって産み出されたものと言えましょう。橋本潤子による希生殺害は,心神喪失状態で起こりますし,また新田俊弘による紫原殺害も,積年の怨みはあるとはいえ,むしろ自分でも抑えの効かない暴力衝動の発現として実行されます。この目的なき「衝動」と「(犯罪)行為」との直接的な結びつきこそが,本編のメイン・モチーフとして描かれているのではないでしょうか。
 衝動が行為に直結するとき,そこに倫理や道徳が介在することはありません。「行為」を目的達成のための「手段」とみなすような,いかなる正当化も言い訳も入る余地はありません。しかし人は,それでもなお正当化を求め,言い訳を求め,あるいは行為の責任の所在を探し求めようとします。それが探し当てられないとき,人は狂気に陥るのでしょう。けれども,最初から衝動と行為との直結を自明のものとして受け入れたとき,人は恐るべき「力」を手にするのかもしれません。通常の心では耐ええない,倫理も道徳も持っていない「虚」な心のみが支えきれる恐ろしい「力」を・・・それはそれで,また別の異なる形の狂気なのでしょう。

01/08/13読了

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