馳星周『漂流街』徳間文庫 2000年

 この感想文は,作品の内容に深く触れているため,未読で先入観を持ちたくない方にとっては,不適切な内容になっています。ご注意ください。

 五反田のデートクラブで働く日系ブラジル人“おれ”マーリオは,借金を抱えたうえに,ヤクザとトラブルを起こし,さらに激情に駆られ女を刺し殺してしまう。逃亡をはかる“おれ”は,関西ヤクザと中国マフィアとの間で,覚醒剤をめぐる大きな取引があることを知る。3人の男女とともに,その金を強奪する計画をたてるが・・・

 これまで,いろいろなタイプのエンタテインメント作品を読んできたつもりです。その中には,過激な暴力描写が全編に横溢する作品もあれば,登場人物がすべて無惨な最後を遂げる作品もあります。いわゆる「後味の悪い」作品も掃いて捨てるほどあります。けれども,そこには一抹の哀愁なり,希望なり,救いなり,カタルシスなり,ときに壮大なカタストロフを目前にした虚無感なりがありました。しかし,この作品の,どうしようもないほどの「やりきれなさ」は,いったいなんなのでしょう。

 この作品は,乱暴を承知でまとめてしまえば,「追いつめられてにっちもさっちもいかなくなった男が,そこから脱出しようとじたばたと悪あがきをして,最後には破滅していく物語」と言えるかもしれません。その手の作品ならば,ホラーやサスペンス小説でも,しばしば見かけるパターンでしょう。しかしこの作品では,この主人公の「悪あがき」が,じつにさまざまな人間たちを巻き込み,さながら主人公の破滅の道連れかのように,死んでいきます。
 それが,たとえば主人公に敵対する,冷酷な中国マフィアのコウや,変態サディストのヤクザ伏見,あるいはまた,欲得づくで結びつきながらも,常に裏切りの可能性を秘めた「仲間」であるケイ・有坂・山田だけであれば,まだ「まし」と言えましょう。それだけでなく,“おれ”の事件に巻き込まれた“アミーゴ”であるリカルド,コロンビア人娼婦ルシア,そして主人公にとって唯一の「汚れなき部分」の象徴とも言えるカーラまでもが,ストーリィ展開の中で悲惨な死を遂げていくというのは,あまりに救いがないというものでしょう。

 ならば,主人公の“おれ”は,「悪」なのでしょうか? たしかに彼は悪行の限りを尽くし,多くの人々に死と破滅をもたらします。しかし,彼は自分の欲望を完遂するために,人々を利用し捨て去るような,そんな冷徹でニヒリストのような「自覚的な悪」ではありません。彼の行動は「場当たり」的で,計画性,展望性がまったくといっていいほど欠如しています。
 あるいはまた,彼は「狂人」なのでしょうか? 自分の狂気を周囲にばらまき,汚染させていく狂人なのでしょうか? たしかに,物語後半での彼の行動は―自分の目的を達するために,みずからに麻薬を打ち,殺戮を繰り広げる行動は,まさに狂人と髪一重のようなものです。しかしだからといって,彼は狂っているわけではありません。「金」と「女」を獲得するために,ときに計算高く,ときに暴力的に,敵を排除していきます。
 「自覚的な悪」でもなく,また「狂人」でもない,にもかかわらず,彼は周囲の人々を破滅と死へと導いていきます。
 作中,こんな主人公のセリフが出てきます。
「いっただろう。神さまなんていないんだ。いるのは人間だけだ。人間はなんだってするんだ」
 むしろ「自覚的な悪」や「狂人」であれば,まだ「救い」はあったかもしれません。彼がどちらでもないこと,あるいは,どちらでもありえたこと――そのことが,どうしようもないほどの「人間」としての「やりきれなさ」を浮かび上がらせているのかもしれません。

00/11/30読了

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