船戸与一『流沙の塔』朝日文庫 2000年

 「うえに飛鳥なく,したに走獣なし。ただ死骨をもって標識となす」(本書より 東晋代の求法僧・法顕の言葉)

 日本横浜と中国広東省梅県で起こったロシア人女性の刺殺事件。きわめて共通点の多いふたつの事件の背後を探るよう,在日大物華僑・張龍全に命ぜられ,海津明彦は梅県に飛んだ。そこで彼を待ち受けていたのは,軍部と公安局との暗闘,秘密結社同士の抗争だった。そして舞台は,ウィグル族の独立運動に揺れる新疆ウィグル自治区へと移り・・・

 さて今回の船戸作品の舞台は「中国」です。これまでこの作者が好んで取り上げてきた南米や中東に比べると,国家体制としては比較的安定している点,やや趣を異にしているといえるかもしれません。しかし,対外開放路線にともなう急激な資本主義化によって矛盾や軋轢が急増し,さらにチベット,ウィグルなど対少数民族政策で「火種」を抱え込んでいるところは,やはり「共通項」と言えましょう。
 けれども,それでもなおかつ,この作品の手触りは,たとえば「南米3部作」―『山猫の夏』『神話の果』『伝説なき地』―などに比べると,やや異なるように思います。この作者は,たしかに国家vs少数民族・被抑圧階級の闘争を非情なまでの醒めた視線で描いているとはいえ,その行間からは,後者に対する「共感」のようなものが感じられます。
 しかしこの作品に登場する,入り乱れての抗争を繰り広げる国家―軍隊と公安局―,哥老会三合会といった秘密結社,ウィグル族の独立をめざすゲリラ集団東トルキスタン・イスラム党は,いずれも「相同形」のものとして描き出されているように思います。張龍全羅光雲らの「血」に対するあくなき執着,利権を獲得するために非合法活動に積極的に加担する軍部や公安局,民族独立のためとはいえ,ヘロイン売買に手を染める東トルキスタン・イスラム党,さらにその権力闘争,文化大革命期の蒋国明と東トルキスタン・イスラム党でのワルダの立場―組織のための娼婦―の共通性などなど・・・
 それらは端的に言って,組織の目的のために,ひたすら個人を抑圧し,個人に組織への奉仕を要求するシステムです。そしてその背後には,すべてを「金銭的価値」「経済的価値」へと還元してしまう,強力な資本主義のパワァが存在します。むしろ作者は,あらゆる組織が,イデオロギィが,そして人間が,「組織」と「資本主義」によって蹂躙されていく様を描き出そうとしているかのようにさえ,見えます。
 ですから,本作品のふたりの主要な登場人物―海津明彦林正春―は,自分に命じられている行動の真の目的も,遂行している行為の本当の意味も,はっきりと知らされないまま,闘争劇の渦中へと投げ込まれ,翻弄されていきます。それは,東トルキスタン・イスラム党の若き党員,オスマン・アイパトラも同様ですし,さらに言えば,事態をコントロールしていると思い込んでいる国家安全部蒋国明でさえ,似たようなものなのでしょう。こういったキャラクタをメインにすえていることこそが,強力な組織と無力な個人という,この作品の底部に流れる主調和音を表しているのではないでしょうか。

 「グロバリゼーション」というアメリカ的資本主義が全世界を覆い,「グロバール・スタンダード」という美名の元に,あらゆる事象が経済効率の中に引き寄せられて判断される現代。その行き着く先は,本書のラストで描かれるような,殺戮の果てにすべてが砂の中に埋もれいていくような,茫漠たる「砂漠」であり,また「流沙の塔」なのかもしれません。

00/11/05読了

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