船戸与一『蝦夷地別件』上中下巻 新潮文庫 1998年

「怒れる鱗。炎の閃光。火の虹。ふたつの旋風。海で死ぬ音。山で死ぬ声。無数の神の死ぬ響き。武き者の白骨。怯えし者の屍。そして,いくたびもの甦りの風・・・。(ポヤウンペ・ユーカラ)」(本書より)

 頃は江戸後半,老中松平定信の時代。蝦夷地(北海道)では,その莫大な利権をめぐって,幕府,松前藩,そして商人たちの欲望と策略が渦巻いていた。一方,100年以上にわたって和人たちに虐げられてきたアイヌたちは,“我らが大地(アイヌ・モシリ)”を取り返すべく,一斉蜂起を決意する。だが,その背後には,祖国を大国ロシアから救うために活動するポーランド貴族の非情な陰謀が隠されていた。いま,北の大地は大きく揺れ動こうとしている!

 船戸作品はそれほど読んだわけではありませんが,たとえば『砂のクロニクル』のクルド人や武器商人,『山猫の夏』『カルナヴァル戦記』の「デラシネ的日本人」など,この作者は,マイノリティやアウトサイダに熱い視線を注いでいます。そして,ときに虐げられ,ときに利用され,ときに抹殺すらされそうになるマイノリティ,アウトサイダたちと,国家を代表とする巨大権力との対決,激突を描いています。しかし「熱い視線」とはいえ,けっして単純な「善悪図式」を当てはめたり,「正義」や「理想」を振り回すようなことはせず,むしろ冷静な,ときとして非情な眼差しで,彼らマイノリティ,アウトサイダたちの群像を描き出していきます。

 さてこの物語には,アイヌ側,松前側,幕府側,商人の飛騨屋一派,そして武士や僧侶など,じつにさまざまな,個性豊かな人物たちが登場します。彼ら同士の確執,抗争を軸としてストーリィは展開するわけですが,それはさまざまな「原理」同士の闘争とも読めるのではないかと思います。
 たとえば「国家の原理」。松前藩という“小国家”を維持するためにあらゆる手段を講じるマキャベリスト新井田孫三郎,国家(=幕府)の密命を受けて暗躍する葛西政信,ポーランドを救うためアイヌに銃を渡し叛乱を起こさせようとするポーランド貴族マホウスキなどなど,彼らはいずれも「国家の原理」で動きます。また国後の長人ツキノエ,セツハヤフらは,彼らの間に齟齬はあるものの「民族の原理」で,和人に対して戦いを挑みます。さらに各人の欲望や憎悪,理想や保身,そういった「個人の原理」が戦いの局面局面,そしてときとして大勢を左右していきます。
 そして「経済の原理」。松前藩や商人たちによって蝦夷地にもたらされた貨幣経済は,アイヌたちの生活を大きく変貌させ,「民族の原理」を侵食していきます。また人の欲望や目的を「銭」に向かわせ「個人の原理」の内容を変えていきます。120年前の「シャクシャイン戦争」の際には団結できたアイヌたちも,「経済の原理」「個人の原理」により寸断され,求心力を失っています。
 当時の日本では,「経済の原理」が着実に社会を変えながらも,「国家の原理」を侵食するまでにはいたりません(ただし松前藩という「小国家」はその成り立ちそのものから,「経済の原理」を基盤にせざるをえない立場にあります)。しかし海の彼方ヨーロッパでは,フランス革命が勃発し,「経済の原理」が「国家の原理」の基礎をなす社会が産声を上げています。それはのちに全世界を覆う「経済=国家の原理」の誕生なのでしょう。作者は,そんな「国家の原理」「経済の原理」が「民族の原理」を解体,制圧していく様子を,冷徹な視線で描き出していきます。そして「民族の原理」が,アイヌの青年ハルナフリの復讐劇という「個人の原理」に収束していくことで,その敗北と終焉とを描き出しているのではないでしょうか?
 「国家」「民族」「経済」「個人」,これら各種の原理の齟齬,軋轢,矛盾,衝突,それらはおそらく「近代」と呼ばれる時代を通じて流れる伏流なのかもしれません。作中,ロシア秘密警察のチュコフスキーがフランス革命を評した言葉が重く響きます。
「あいつらの言う自由・平等とはフランス人のためだけだ。アフリカや新大陸じゃ適用されない。黒んぼどもからは血と汗を搾り取ることしか考えないくせに,そんなきれいごとを並べるのは偽善だ。わたしにいわせりゃ,ちゃんちゃらおかしい」
 そしてそれは現代まで綿々と流れ来ているものなのでしょう。ですから,たとえ素材が「歴史」であったとしても,この作者が描き出そうとしている「世界」はやはり「現代」なのかもしれません。

98/07/11読了

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