船戸与一『砂のクロニクル』上・下 新潮文庫 1994年

 イラン西アゼルバイジャン州マハバード。かつて一時的とはいえ独立国家をつくったクルド人の“聖地”。その奪回をはかるクルド・ゲリラ。彼らから依頼され武器を調達・移送する日本人武器商人“ハジ”。一方,イスラム革命から10年,イラン・イラク戦争停戦から半年,イラン国内で膨らむ民衆の不満と権力闘争。さらに国内の緊張を高めるためクルド人弾圧をたくらむイラン情報部。そしてイラン革命防衛隊の腐敗,堕落を目の当たりにして,革命精神の復活を熱望する若き兵士。それぞれの思惑で行動する彼らの軌跡が交錯するとき,“聖地”マハバードは闘いの炎に包まれる。

 あからさまな欲望と暴力,陰謀と裏切り,狂信と紙一重の情念,そして破壊と殺戮。ここらへんは,先日読んだ『山猫の夏』とほぼ同じですが,『山猫』が,ブラジル奥地のいわば閉鎖された世界における殺戮劇であり,一種の“ダーク・ファンタジー”的な色合いを持っていたのに対し,この作品は,現在でも世界の火薬庫といわれ,湾岸戦争の舞台でもあり,今なお絶え間ない紛争が打ち続く中東を舞台にしている分だけ,絶望感とも虚無感ともいえぬリアルな重苦しさを感じます。また登場人物も,『山猫』が,ギラギラと燃えさかるような人間が多かったのに対し,こちらは,むしろ昏いゆらゆらと燃える情念を抱え込んだ人物が中心だったようにも思えます。

 物語は,日本人武器商人“ハジ”こと駒井克人,クルド・ゲリラのハッサン・ヘルムート,イラン革命防衛隊のサミル・セイフの3人を中心に展開していきます。それぞれの行動がニアミスを繰り返しながら,最後のクライマックスへとつながって行く流れは,よく見られる構成ではありますが,それぞれの行動を追う各章において,中東やソ連のダークサイドが丁寧かつ迫真を持って描かれ,物語全編を覆う不穏で焦臭い雰囲気を盛り上げています。またその過程で起こるさまざまな衝突やトラブルは,多くが血なまぐさい結末を迎え,最後の破壊と殺戮への序章ともなっているように思えます。さらに駒井は「欲望」のために行動し,ハッサンとサミルは「革命」のために行動しますが,ハッサンはどちらかというと「憎悪」がその行動原理であり,一方サミルは狂信にも近い「観念」で動きます。そういった主要人物の行動原理が違うため,それぞれの行動を追う各章が異なる色合いを持ち,長い物語にも関わらず,退屈せずに一気に読み通すだけの吸引力をもたせたように思えます。そしてもうふたりの人物。ともに,かつてはイラン革命に身を投じたものの,夢破れ,片や隠遁生活を送る日本人(もうひとりの“ハジ”)と,復讐のために身と心を売ることさえも厭わない女性・シーリーン。彼らの「革命」と「挫折」のストーリーもまた,血塗れのこの物語の底を流れる哀しみと虚しさを表しているように思います。とくにラストにおけるもうひとりの“ハジ”の姿には,『平家物語』を奏でる琵琶法師のような趣さえおぼえます。

 中国では,新しい王朝が成立すると,前の王朝の歴史書を編纂するのが慣例になっています。新しい王朝は当然,前の王朝を滅ぼして成立したのですから,なぜ滅ぼしたのか,ということを正当化しなければなりません。王朝末期に暗愚な王や残虐な皇帝がたくさん出てくるのは,新しい王朝が前の王朝を滅ぼす理由づけとして,誇張している場合もあるかもしれません。この作品の冒頭で作者は「暦は勝者のものが」といっていますが,クロニクル(年代記)もまた勝者のものなのでしょう。だから「書かれたクロニクル」の背後には,「書かれなかったクロニクル」が山ほど,それこそ掃いて捨てるほどあるのでしょう。小説家の特権は,「書かれなかったクロニクル」を想像力を持って描き出すことにあるのかもしれません。そして,たとえ書かれていなくても「あったかもしれないクロニクル」として読者を魅了するかどうかは,その作者の力量によるのでしょう。文庫本上下巻あわせて1000ページを超えるこの小説は,その長さに見合った重厚感とともに,その長さを感じさせない迫力とおもしろさを兼ね備えた「あったかもしれないクロニクル」だと思います。

97/05/10読了

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