まだ、やめられる人工島。
  いのち、暮らし、ひとが輝く鹿児島。
田のぶ子援会
プロフィール アピール 人工島 紙芝居 事務所から 市民の会 トップページ

かがやけ!庶民!!
46歳、人工島・市民投票条例制定請求代表者
内田さんの略歴
昭和29年3月4日 鹿児島県肝属郡内之浦町で出生、同郡吾平町で育つ
昭和44年3月 鹿児島県肝属郡吾平中学校卒業
昭和47年3月 鹿児島県高山高等学校卒業
昭和47年〜50年 OLを経験
昭和59年〜 鹿児島市天文館で飲食店を経営
鹿児島市立川上小学校・緑ヶ丘中学校PTA役員などを経験
平成5年8月6日 8・6災害で、経営していた地下の飲食店が水没。無一文で投げ出され、以降、「まちづくり」に目を向けるように。
平成8年 市民団体「オンブズマン鹿児島」の初代事務局担当
平成10年 「人工島を考える県民の会」世話人
平成11年 人工島工事差し止め訴訟・原告
人工島漁業補償関連文書を巡る損害賠償請求訴訟・原告
約4万5000人分の署名を集めた人工島・市民投票条例請求代表者
現在 「わたしたちの市長をつくる市民の会」代表委員
家族 1男、2女

内田のぶ子の思いっきり人生
 はじめに  
 このページは2000年10月12日に行われた高橋 明男氏と内田のぶ子さんとのインタビューに基づいて、編集された、対談集「内田のぶ子の思いっきり人生」からの抜粋です。
 内田のぶ子さんの人となりを知っていただく上で、たいへん貴重な参考になるものと思います。
 対談集「内田のぶ子の思いっきり人生」は、市民の会で一部300円にて販売致しております。是非、お買い求めください。
 尚、 このホームページでは、対談集の内容の一部をご紹介致します。
 目次
 ☆父のこと☆
 ☆大学へは行かない☆
 ☆結婚それから☆
 ☆水害・市民運動☆
 ☆オンブズマン活動で見てきたもの☆
 ☆人工島問題−まずは知ることから☆

 ☆父のこと☆
 内田さんは九人兄弟の九番目(長男と次女は亡くなっています)、生まれは肝属郡内之浦町です。父親は小学校の教師でした。
内田さんの「七草」のお祝いのとき、末っ子で最後の七草ということで盛大にお祝いしたとのこと、お父さんも大変にご機嫌だった様です。
 明けて八日、お父さんは知的障害のある子供を連れて、山へ木を切る作業に出かけましたが、その子が切った木がお父さんの上に倒れてきて、木の下敷きになってしまいました。怖くなった子供は逃げていってしまいました。このため発見が遅れてしまい、ようやく病院に運ばれましたが、翌九日亡くなってしまいました。
 そのとき「絶対あの子を責めるな」と、それだけを繰り返し言っていたそうです。
 のぶ子さんは小学校に入る前に突然父親のいない子になってしまいました。このことを契機に、多くの苦労が家族に押し寄せてきました。お母さんは、豚を飼ったり花を売ったりして七人の子供達をともかく高校まで出してくれました。

 ☆大学へは行かない☆
 当時、父親のいない子に対する偏見みたいなものはとても強く、二人の姉は大学へ行けず泣く泣く就職しました。そのような姿を見てのぶ子さん自身は「ともかく就職したいんです」と言い張っていました。そうして東京のバッテリー会社の営業所へ事務員として就職しました。
 昔は、学校の先生の娘というのは、ちやほやされたりするものだったのですが、ある日突然、手のひらを返したように「父親のいない子」という捉えられ方をすることに不条理を感じたということです。
 「それは私が住んでいた地域がとくにそうだったのかもしれませんけれど、その理不尽さみたいなものが私に与えた影響はあったと思うんです。世の中への反発、不条理だとおもうことですね。父親がいないということが、なぜその人の就職に影響するのか、わからないじゃないですか。それは、女性として生まれたために差別を受ける世の中ということとも似通っていますね。自分で選択できない、自分でどうしようもない、変えることのできないことによって、不条理に差別を受ける。それは辛いことですよね」

 ☆結婚それから☆
 結婚してからは取り憑かれたように、家事や育児、いいお嫁さん、いい奥さんをつとめていたようです。
スナックの仕事は、専業主婦の合間に友人から頼まれて十二月の忙しいときだけのつもりで手伝いに行ったところ、更に頼まれて三年半たち、その後、自分のお店を持つようになりました。それから十六年もたってしまいました。
 この間、嫁として、母として頑張りながら、PTAの役員もこなしていました。
  毎晩、天文館から帰った後、子供達の宿題を毎日みて・・
 「それはもう毎日の習慣で、子供達は三人三様、自分たちの宿題を私の机の上に置いてあるんですね。私はそれを一つひとつ、計算問題であればそれを解いてマルをしたり、日記が書いてあれば一言添えて・・・。これは親がしなくてもいいんです。本来は先生がされることなんですけど、私はそういうのが大好きで、苦にならないから、帰宅してから、そういうことを必ずきちんとやっていたんです。その生活を何年も続けていたら、疲れ果てちゃったんですね」
 「いっしょに暮らしていたとして、あなたがとても不愉快な思いをしていたとする。あるいは自分がとても不愉快な思いをしていたとする。そうすると、私はとにかく黙るんです。ぐうっとこらえるんですね。ああ、彼はいまとてもいやな思いを抱いているなと思うと、すうっと離れるんです。それが、『あなたが悪い』『おまえが悪い』となってしまえば、それでケンカになるわけです。それも一つのあり方なんでしょうけれど、私はそうやって荒い言葉をぶつけ合うことがあまり好きではないんですね。
 それと、子どもたちの前でそういう姿を見せるのもとてもいやなんです。だから、離婚に際して何か決定的な理由があったということではないんです。ひとつは疲れ果てたということですね。そして、相手の人も、お父さんも、私のワガママを認めてくれるいい人たちであったということです」

 ☆水害・市民運動☆
 水害前には特別な活動はしていませんでしたが、「ただ、長女が生まれたときに、俄然こう思いました。ああ、この子は次ぎに子どもを生むんだと。とたんに、子どもに与える食べ物や飲み水に気をつけなければならないと思ったんです」
 「あとはもう、突然水害が出てくるわけです。世の中がどんどんおかしな方向へ行っている、そのように誰もが感じていた時期です。私たちはある日突然、水害によって文無しになるわけですが、そのことの責任を誰かが取って、だれか保障してくれるわけじゃないんです。私は借金することができたから、再建できただけのことで、借金できない人は再建できないんです。
 その頃、『橋犯人説』というのが出てきたんです。もしこのまま西田橋や高麗橋が架かったままで、水害が起きたら誰が責任を取るのか、という責任論がずいぶん出たんです。
 私はね、そういう論理のすりかえが一番いやだったんです。知事は『住民のいのちと暮らしを守るために』と言いましたけれど、かりに橋のせいで水害が起こっても知事は責任なんか取らないし、取らなくてもいいんです。阪神大震災のときもそうでしたけど、どんな大きな災害が起こって、そこから火事が起こっても、行政は責任は問われないんです。なのに、そういうふうに論理のすりかえをして、『橋犯人説』を言い立てるという、そこらあたりの行政のあり方ですね。
 ・・それから、これは被害に遇った人たちの共通の思いだと思うのですが、『こんな辛い思いをするのは自分だけでいい』と思うんですね。もう他の人にこの思いはさせたくない。であれば、被害者である私たちは、なぜこんなことが起こったのか検証しなければいけない。私は被害に遇ったものとしてそれを検証する義務があるのではないかと思ったんです」
 当時は市民運動の人たちが一生懸命、代案を出すんですね。ところが行政マンというのは木で鼻を括ったようなといいますか、薄ら笑いを浮かべて聞くんですね。そういう態度が、きっと私の中に小さい頃からあったいわゆる義憤、不条理に対する反発を呼び覚ましたんでしょうね。『この人たちがこんなに一生懸命勉強して、こんなに一生懸命語っているのに、一体あなたたちは何の立場で何の権限があってそんな鼻先で笑うのか?』という思いがずっとあったんですね」

 ☆オンブズマン活動で見えてきたもの☆
 平成五年に水害があって、平成八年に「オンブズマン鹿児島」ができました。昼間の時間に出て行ける人間は限られていて、内田さんは結果として「オンブズマン鹿児島」の発足から、ずっと今に至るまで関わり続けることになります。
 この「オンブズマン鹿児島」は三千円の入会金を払えば誰でもメンバーになれる開かれたグループなんですが、実際の作業は大変なもので公文書を取り寄せ、根気強く、諦めずに書類を整理し分析していかなければなりません。
 県の農政部の旅行命令票の疑惑や鹿児島県の東京事務所の食糧費の疑惑、甲突川の激特における談合問題などについて、来る日も来る日も根気強く作業を続けていきました。
 このように、一つひとつの事柄について徹底して見ていく、理解していくという内田さんの姿勢が今後の市政にとっても大変重要になると思われます。
 「ウソを成り立たせるためのシステムが出来上がっていることがいやなんです。食糧費では架空の店を最初につくるんですよ。それから架空の請求書を作り、その架空の店の口座をつくるんですよ。こういうものは個人の力でできるものではないですよ。システムがあるんですよ。このシステムが長年見過ごされてきたということが、たまらなくいやなんです」

 ☆人工島問題ーまずは知ることからー☆
 平成十年のオンブズマン全国大会で公共事業の見なおし論という提言が出されました。
 このとき内田さんは、民間の建設会社、もしくはコンサルタント会社に、退職した県庁マンがたくさん再就職している実態のリストをまとめた「県庁マンの天下り調書」を作って、その大会に報告しました。
 「これは定年退職する前であれば、ヘッドハンテイングということになりますが、まるまる退職金をもらった後で、もう次ぎの月から、あるいは半年後から、部長とか副社長とかいう地位で迎えられるんですね。結局それは何故かと言えば、談合の情報が欲しいわけです。入札の予定価格の情報が欲しいわけです」
 平成十年の九月七日の「建設新聞」に人工島建設に予算がついて、その護岸工事の入札が九月三十日に行われる予定との記事が掲載されていたのを見て、九月十七日にオンブズマンの役員と二人で県庁に開示請求に行きました。これが内田さんと人工島建設の戦いの始まりです。
 「九月三十日に入札が行われるという予定が決まっていたんですね。入札というのは、その日に入札をして一番安い価格を提示した業者が落札をします。するともうそこで決まってしまうんです。お金は確実に動いていくんです。だから、九月二八日に、知事と県議会議長に宛てて緊急の申し入れをするんですね。九月末の入札執行を延期してください、まず環境アセスをしてからにしてくださいと。で、そうすると県はビックリするんですよ。
 結果として、九月三十日には入札は行われませんでした。年末まで延期になったんです。その三ヶ月間に、私たちは開示請求を繰り返し行って、どんどん『人工島問題』に火がついていったんです」
 しかし、この時点で、漁業補償は既になされていたのです。県は総額十六億三千五百万円の補償金のうち、半分を支払っていて、あとの半分を支払う時期と方法に関しては黒塗りにして出してきたのです。
 「最初の半分を支払った日付も黒塗りにしてあったんですが、これはあとの半分の支払い期日を隠したいために、両方とも日付を黒塗りにしたんですね。でも、これからこれだけ払いますということが日付からわかってしまったら、私が差し止めの裁判でもしますよね。だから黒く塗って出したんですね。非常に良くないやり方をするんですよ」
 「人工島はね、県が掲げる目的が、ある時点から変わっているんですね。でも目的が変わるということはありえないんですよ。よく考えればそうですよね。一番最初は大型観光船を誘致するために人工島つくるんだと言っていた。観光鹿児島、立県 鹿児島のためにつくるんだと言っていた。
 ところが、それでは平成三年から九年まで、七年間ずっと一円の予算も付かなかった。なぜかというと、国のほうで、そんな計画はいまさらだめだよ、それは遊休地になるばっかりだよ、大変なことになるよと言って、一切予算をつけなかったんです。だから、県は目的を一八〇度転換して、桜島の土石流対策として国に申請したんです。それで初めて一億という予算がつくんです。
 これで導入しておきながら、県民のパンフレットには、『大型観光船が来ますよ』『日本一広いメインホールをもつ国際会議場ができますよ』という夢ふくらむような話を書くんですね。国はそんなのではお金は出していないんですよ。国が認めているのは、桜島護岸の緊急対策事業として、桜島の土石流を埋め立てるためのケーソン(コンクリートの箱)をつくって、その中に埋め立てなさいと。それだけなんです。
 しかし、この土石流の処理のために人工島が必要というのも、本当は根拠のない話なんです。現在、桜島の土石流対策は、建設省がとてもよく処理しているんです。現場に行くとよくわかるんですが、ホッと安心できるほどに整備されています。さらに桜島には広大な市有の溶岩採掘跡地があるんですが、ここを使えば、土石流をこの先二十年間分も処理することができるんです」
 内田さんが、ここまで人工島にこだわる理由は何故でしょうか。
「何よりも人工島建設が無駄遣いの最たるものであること。採算が絶対に取れないんです。どう考えても不幸な埋め立てになります。
 でも市政の長が変われば、やめられる。それだけのお金を身近なものに使おうということです。ともかく、多くの市民の人たちが望まないものにはノーと言える方向に市政の流れを変えることが必要だと思うのです」
 「コンクリートの塊をつくる作業自体は、それほど難しい作業ではないでしょう。でも、それが経済に及ぼす影響力、景気浮揚の影響力というのはほとんどないと言ってもいいでしょう。
 それよりはそれだけのお金をべつの公共事業、介護保険の改善であるとか、それこそ電線の地中化とか、学校の水をおいしくするとか、そっちに使うほうがはるかに効果的、有効な使い方ですよ」
 「子どもたちの置かれている状況が、今ものすごく不幸です。なぜ子供たちをめぐる状況がこうなってしまったのかと思うときに、それと並行して、こんなバカな埋め立て、こんな無駄なお金の使い方はやめましょうよ、という思いが出てくるんです。つまり、いま見直したいことの中心に人工島の問題がある。それは私にとっては直接的に子どもたちのことにつながっているんですね。今のままでいいんだろうかという、ものすごく強い危機感はありますよね。
 大人たちがストップをかけなさすぎた。つまり、自分たちのこととして物事をとらえなさすぎた。自分以外の誰かがやってくれる。そして、ぜんぶ批評家になって、みんなこっち側から、『ほーら、ああなると思っていた』『シーガイアもああなることはわかってた』『自分はとっくのとうにわかってた』と。みんな批評家ばかりになりすぎていると思う。やっぱり、子供たちが『あっ、あの人みたいになりたい』と思える大人が少なすぎるんだと思う。
 だから、そういう意味でも、『公共事業がおかしいよ』『介護保険、ものすごく矛盾だらけじゃないですか』と、一つひとつの問題に敢然として真っ正面から立ち向かう大人たちが増えれば、子どもたちの持っている世界が変わってくると思う。私はそう思っているんです」
 「ただ、いまの大人の中には、市民運動の人たちに対して『あの人たちはそういうことをする人たちなのよ』と自分とは関係ないように言う人たちがいるじゃないですか。よく聞こえてくるのは『私は人工島は反対でもないし、賛成でもない。だってそれぞれ言い分があるでしょう。私は、中立よ』という言い方ですね。
 こういう言い方には、私は疑問があるんです。中立ということはありえないのではないかと思うのです。人工島をよくよく知れば、賛成か反対かのどちらかになるんです。中立という答えは本来はないはずなのに、それをいかにも自分は思慮の深い人であるかのような、そういう言い方をする大人たちがものすごく多いんです。
 そして、『まあ、賛成する人も、反対する人もいないことには、物事は進まないからね』とか言って、自分はとてもいい気持ちで論理を終えてしまう人たちがいるんですが、私はやっぱりそういうのが一番いけないと思う。ちっとも問題を見据えていない。
 やっぱりね、指をさす人が多いんですね。『そういうことが好きな人たちの集まりなのよ』というニュアンスで、対岸の火事のようにして。
 そうでなく、みずから流れに飛び込んで、向こうから流れてくる丸太を支えようと。これ以上流れたら、下に子供たちがいる。そのとき自分も流れに飛び込んで行って抗する大人が何人いるか、ということはものすごく大事なことだと思うんです。国をつくるうえで、ものすごく大事なことだと私は思っているんです」

プロフィール アピール 人工島 紙芝居 事務所から 市民の会 トップページ

わたしたちの市長をつくる市民の会
鹿児島市郡元3丁目6−26松崎ビル2F
電話099−813−0201/099−813−0203
ファクス099−813−0204
郵便振替01720−0−84272
(後援会資料)