坂東眞砂子『旅涯ての地』角川文庫 2001年

 「彼らは神に頼らなくてはならないほどに弱く,神を信じ続けるほどに強いのだ」(本書より)

 日本人と宋人の血を引く“私”夏桂は,マルコ・ポーロ一行の奴隷として,西の果ての地ヴェネチアへと渡ってきた。だが偶然<太陽をまとう女>と呼ばれる板絵を手に入れたことから,数奇な運命に巻き込まれる。ポーロ家を逃亡した“私”は,瑪瑙色の瞳を持つ女マッダレーナとともに,異端カタリ派が隠れ住む“山の彼方”という山奥の村へとたどり着くが……

 『狗神』『死国』,あるいは『桃色浄土』『山妣(やまはは)』といった日本の土俗的世界を素材にしてきたこの作者が,主人公を日本人と宋人の混血と設定しているとはいえ,一転して13世紀のヨーロッパ,それもキリスト教異端のカタリ派を描いたということに,正直,最初はやや戸惑いを感じました。
 しかし読み終わってみると,上に挙げた作品群と本編との間には通底するものがあるように思えてきました。そのキーとなるのが,作中において,マルコ・ポーロの書簡に出てくる次の一節です。
 「人の成したことにおいて,書かれたこと以外に長く残るものがあるだろうか」
 彼は,人間の行為における「書かれたこと」の優越性を謳いますが,父ニッコロは,その返書の中で,「文字もまた人の手で造られたものである以上,いつかは滅びていく」と息子を諭します。さらに,このマルコによって「書かれた」書簡中に,大いなる偽りが隠されていたことが,夏桂によって暴かれます。夏桂は言い放ちます。
 「書かれたものなぞ,信用するではない。それは翼を持ち,やがて真実の仮面をもって広がっていく」
 この「書かれたもの」に対する夏桂の言葉は,さらに『聖書』の「福音書」をめぐるローマ教会の姿勢にも通じています。教会は,みずからにとって都合のいい「福音書」を採用し,布教の基礎とします。それ以外の「福音書」,あるいは「福音書」をめぐる解釈は「異端」として攻撃され,殲滅されていきます。たとえ「書かれたもの」の中に虚偽はなくとも,「すべて」が伝わることはありません。
 この作者が描いてきた日本の「土俗的世界」もまた,「書かれたもの」ではありません。口頭伝承や民間信仰は,「正史」にはけっして記述されることのない,人々の間で語り伝えられ,守り伝えられてきたものです。ときに「淫祠邪教」の名の下に弾圧されます。しかし「書かれていない」ことは,けっして存在しなかったことと同義ではありません。一方,この作品で取り上げられているカタリ派は,たしかに「書かれたもの」は存在するでしょう。しかしそれは,ローマ教会によって「書かれたもの」であり,「信用するではない」ものです。異端として告発し,攻撃し,排斥してきた側からの一方的な解釈,それも悪意に満ちた解釈でしかありません。「書かれたもの」によって覆い隠されたもの……それはまた「書かれざるもの」と同じ性質を持っているのでしょう。

 しかしだからといって,作者は,カタリ派の隠れ住む“山の彼方”を必ずしも「楽園」としては描きません。それは視点を「異教徒」である“私”夏桂に設定したことにも現れていますが,それとともに,ローマ教会が行ったのと同じことを,異端とされたカタリ派内部においても起こしているからです。ベルナルド司教の急死によって,次代司教の座をめぐる争いが“山の彼方”の中で生じます。エンリコは,みずからの正統性を主張,ベルナルド司教が「異端」であると告発します。さらに新たな司教となった彼は,マッダレーナによってもたらされた「マリアによる福音書」を,みずから信奉する教義に合致しないという理由から,葬り去ろうとします。その行為は,ローマ教会がカタリ派を異端として排斥するのと同型のものです。
 またそこには『山妣(やまはは)』で取り上げられた「女と男」の問題が現れています。『聖書』の「福音書」はすべて「男」によって書かれたものです。エンリコは「マリアによる福音書」を,内容も見ずに「女が書いたから」という理由で焼き捨てようとします。二重三重の「正統と異端」の関係の奥底に,「男と女」という,さらに根深い権力関係が織り込まれています。だからこそ,最後に明らかにされる「マリアによる福音書」の内容とは,そんな女にとっての−それは同時に男にとっての−真の「福音」だったのでしょう。

 「書かれなかったもの」,あるいは「書かれたもの」によって覆い隠されたもの,また「書かれざる」がゆえに人々の心の奥に根ざしたもの……それらを作家的想像力で掬い上げること,それがこの作者のスタンスなのかもしれません。

02/01/27読了

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