坂東眞砂子『山妣(やまはは)』新潮文庫 1999年

 この感想文は,ネタばれ気味ですので,ご注意ください

 頃は明治,舞台は越後の寒村・明夜村。“山妣(やまんば)”の伝説が伝わるその村に,東京からふたりの旅芸人がやってきたのがはじまりだった。雪に閉ざされた村の中で渦巻く愛憎と狂気,そして20数年前に起きた殺人事件。ふたつが運命的に結びつくとき,白銀の雪山は鮮血に染まる・・・

 本作品は3部構成になっていますが,本書を貫くメイン・モチーフは,言うまでもなく「山妣」です。
 「第1部 雪舞台」で,明夜村に伝わる「山妣」に語られますが,そのイメージは,語るものによって微妙に異なります。囲炉裏端で男たちが語る「山妣」は,
「婆さは鬼みでに口の周りに血をつけて,赤っ子の躰に喰らいついとったげら」
「毎年,十二月の八日になると,決まって,きっつえ吹雪が来るのんし。ありゃ山妣が子供探して里に降りてきてるんだいや」

という,「子を喰らう女」です。一方,メイン・キャラクタのひとりの,死に瀕した母親は,つぎのように言います。
「妙,おらにはわかるんだ。なして昔から,女衆が山に消えていったか。皆,山妣になりたかったからじゃねえか」
と。「男」たちには恐怖と嫌悪を持って語られる「山妣」は,「女」によって,ある種の憧れを持って語られる――「山妣」はそんな多義的なイメージを本書では担わされています。それは,「明夜村」という小宇宙を共有しながらも,その小宇宙の中で置かれた立場の違い―男と女の違い―に由来するものなのでしょう。
 そして「第2部 金華銀龍」になると,一転,“私”という一人称で物語は語られます。舞台は,「第1部」をさかのぼること20数年,“私”は鉱山町の遊郭で働く遊女です。貧困にあえぎ,「一般の」男からも女からも蔑まれる遊女―彼女は社会の中の最底辺に生きています。彼女はひょんなことから金塊を手に入れ,惚れた男とともに山中に逐電します。しかし,男に裏切られ金塊を失い,また助けてくれた渡り又鬼重太郎も彼女のもとを去ります。彼女はただひとり雪深い山中で生きていきます。そう,彼女こそが,明夜村に伝わる「山妣」そのものだったのです。ここに来て,本書における「山妣」は伝説の存在から血肉を持ったひとりの女へと変貌します。
 その「山妣」の姿は,たしかに「社会」から蔑まれ,排除されたものではありますが,それとともに,「社会の掟」,人が山に持ち込んだ「山の掟」から自由になった,解放された「女」の姿でもあります。彼女は言います。
「山の掟なんか知るものか・・・・そんなものは通用しないのだ。もし,ここに掟のようなものがあるとすれば,自然の作った掟だけだ・・・ここは人の掟の及ばない世界なのだ」
 「人の掟」の中で虐げられた彼女は,「山妣」になることによって,はじめて自由を得ることができます。
 「第3部 獅子山」は,「第1部」の続きではあるのですが,途中に「第2部」が挟まれることによって,物語は大きくその容貌を変えます。登場人物たち同士の思わぬ関係が明らかになり,「現在」の柵と「過去」の柵とが十重二十重に重なり合い,もつれ合います。男女の愛憎,欲望と狂気の絡み合いの果てに,雪山での惨劇へと雪崩れ込んでいきます。その展開は,それまで描き込まれてきた世界を反転させる鮮やかさと迫力に満ちています。
 そんな雪山を真っ赤に染める地獄絵図の果てに,「山妣(やまんば)」は「山妣(やまはは)」へと変身します。男を,子どもを,社会を,すべてを捨てて山中にひとり暮らす「山妣」の姿は,醜くも哀しいものではあるものの,そういった愛憎や欲望の渦から超然とした孤高の輝きを持っています。そして男でも女でもない「ふたなり」涼之助に新たな命を与える「山妣(やまはは)」になります。

 冒頭にも書きましたように,本作品のメイン・モチーフは「山妣」です。しかし作者は,その「山妣」のイメージを,物語の展開とともに二転三転させていきます。恐怖の対象としての「山妣」,女の哀しい憧れとしての「山妣」,社会の最底辺を生きる者の行き着く先としての「山妣」,そしてすべてから離れ,新しい命を吹き込むものとしての「山妣」――この,最後の「山妣(やまはは)」の姿があるがゆえに,哀しみと苦しみ,愛憎と狂気,血にまみれた惨劇の物語でありながら,最後には,静謐で透明な―雪山の白さにも似た―読後感をもたらすのではないかと思います。

 ところで本作品は,「補陀落信仰」を素材とし,南国土佐の漁村を舞台にした愛憎劇『桃色浄土』と,同じように「土俗」を素材として,雪国越後を舞台にしているという点で,ちょうど対をなすのではないでしょうか?

00/01/03読了

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