梶尾真治『まろうどエマノン』徳間デュアル文庫 2002年

 「私が,まだ自分のことを“ぼく”と言っていた時代のことだ」(本書より)

 アポロ11号が月面着陸した日,“ぼく”は,夏休みを過ごすことになった,曾祖母の住む九州の田舎を訪れた。そこで“ぼく”はエマノンに出会った。そして“ぼく”は,不思議な一夏を過ごすことになる。けっして忘れることのない「エマノンのいる夏休み」を…

 叙情SFを得意とするこの作者の作品の中でも,とくに叙情性が豊かな本シリーズではありますが,今回は,冒頭の一文から「がつん」とやられました。それが上に引用した文章です。
 いったいいつからわたしは「ぼく」という一人称を使わないようになったのでしょう。小学生の頃は,たしかに使っていたと思いますが,中学生では「おれ」になっていたかもしれません。いまでは,「わたし」をメインとしながら,ときおり「おれ」が混じる,といった感じです。少なくとも「ぼく」を使うことは滅多にありません。わたしにとって,「ぼく」という自称は「子ども時代」を意味するものであり,その自称を使わなくなったことが,もしかすると(無意識的に)「子ども時代との決別」を象徴しているのかもしれません。ですから,この一文は,わたしを一気にノスタルジィの世界へと引き寄せる強烈な一撃となったわけです(念のため付記しておきますが,もちろん「ぼく」を使っているから子どもだ,などと言う気は毛頭ありませんので)。

 さて『かりそめエマノン』に続いて,「エマノン・シリーズ」の長編第2弾です。『かりそめ』が,エマノンの「兄」という,短編シリーズにはなかったキャラクタを登場させることで特徴づけられるのに対し,本作品は,むしろ『おもいでエマノン』のようなテイストのものを長編で描いているといった趣があります。
 このシリーズで,エマノンは,地球の生命40億年の「記憶」を受け継ぐ,一種の「不死者」であり,彼女と「一般人」−時間の流れの中で生まれ死すべき運命としの一般人とのコントラストが,「生のはかなさ」と同時に,連綿と続く生命の歴史の重みをも浮かび上がらせています。
 それとともに,作者は,エマノンを「20歳代の女性」と造形することで,もうひとつの効果をも産み出しています。つまり男性にとって,あるときは恋愛の対象や妻であったり,あるときは父親にとっての娘であったりします。そういった密接な関係が生じるがゆえに,上に書いたような「不死者」と「一般人」という絶対的な「溝」が,よりくっきりと描き出されるわけです。
 そして今回,「20歳代の女性」という造形は,主人公の少年にとっての「遠くに住んでいてときおり訪れる親戚の年上のおねえさん」といった雰囲気を与えているように思えます。お正月や盆休みにやってきて,短い期間,一緒に遊んでくれるやさしいおねえさん…それはまさにタイトルにあるように,子どもにとっては非日常的な「まろうど」であります。それゆえに,本編の主人公の経験は,作品の性格上,SF的なものではあるものの,「年上のおねえさんと過ごす夏休み」という,少年にありがちな「甘酸っぱい経験」とも響き合うものがあり,そこにこそ,この作者の叙情SFの本領が発揮されているのではないかと思います。
 それと同時に,エマノンは,「白比丘尼」と呼ばれ,主人公が過ごした村にとっても「まろうど」として見られています。「自分たち」とは異なる「外側」から来訪し,一時滞在ののちに,ふたたびいずこかへと去る「まろうど」…エマノンは主人公にとってだけでなく,村人にとっても「まろうど」なのです。つまり,主人公の個人的経験は,さらに歴史の中へと拡大され,人々の心の中で,エマノンは「まろうど」という形で結晶化していきます。ラスト,成長した主人公の息子が,ふたたびエマノンと出会ったことを暗示するシーンが描かれることによっても,主人公の体験が,時代を超えて受け継がれていくことを表していると言えるでしょう。

 エマノンとは,あらゆる人々にとって,ごくわずかな時間しか共有しないけれど鮮烈な記憶を残していく「まろうど」なのかもしれません。

02/12/28読了

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