京極夏彦『巷説百物語』角川書店 1999年

 「人は弱いぜ。だからよ。嘘を嘘と承知で生きる,それしか道はねえんだよ。煙に巻いて霞に眩まして,幻見せてよ,それで物事ァ丸く収まるンだ。そうじゃあねェか――」(本書「帷子辻」より)

 『嗤う伊右衛門』に登場した「御行の又市」をメイン・キャラクタとした連作短編集です。あるいは京極版「必殺シリーズ」とでもいいましょうか(笑)

 この作者の代表作「京極堂シリーズ」は,前半において人外のものとしか思えぬさまざまな怪異を描き出し,後半,京極堂によって,それが解体され,「理」の枠組みに再構築されるという構造をとります(この点は,「問題編」「解決編」からなる本格ミステリのフォーマットと共通するものがあります)。先日出版された『百鬼夜行―陰』は,その後半部分を落とした「妖怪小説」だったわけですが,この作品は,その京極堂シリーズの構造を踏襲したものと言えましょう。つまり,前半の「怪異」と後半の「理」からなります。
 しかし京極堂シリーズと決定的に違うのは,京極堂と御行の又市との立場でしょう。京極堂は,何者かの悪意や欲望,狂気,あるいは偶然によって生じた怪異を解体する―「憑き物を落とす」―役割を担っているのに対し,御行の又市は逆に,その怪異を「理」によって構築する―「御行 為奉(したてまつる)」―側にあります。京極堂が怪異を白日の下に曝すことで事件を解決するのに対し,又市は怪異という煙幕をたきあげることで事件を落着させるという,正反対のベクトルをもっていると言えましょう。
 しかしその一方で,両者は共通した性格をも持っています。それは「言葉」を武器にすることです。「御行の又市」,またの名を「小股潜りの又市」。「小股潜り」とは,「甘言を弄して他人を謀るというような意味」だそうです。「言葉」により人を欺き,騙し,誘導し,幻を見せる又市と,「言葉」によって怪異を名づけ,言い換え,腑分けし,幻を解き放つ京極堂とは,いわば同じもののふたつの「顔」と呼べるかもしれません。
(ただし後半3編は,若干フォーマットを変更しているようです。シリーズがつづくとともに,読者にキャラクタの「素性」がわかってしまうと,それ相応の工夫も必要なるのでしょう)

 さて本書には,そんな「怪異譚」7編―「小豆洗い」「白蔵主」「舞首」「芝右衛門狸」「塩の長司」「柳女」「帷子辻」―がおさめられています。主人公の御行の又市のほかに,山猫廻しのおぎん,事触れの治平,戯作者志望で,「百物語」を開板したいという夢を持つ山岡百介らが,メインとなって活躍します。短編という性格上,周到綿密に伏線を張り巡らす京極堂シリーズに比べると「小粒」といった感は免れないものの,怪談とミステリをほどよくブレンドした作風は,この作者の自家薬籠中のものであり,いずれもおもしろく読めました。
 わたしがとくに楽しめたエピソードは,おぞましい視覚的イメージにあふれた怪談をベースにしつつ,読む者に眩惑感を誘うような巧みな構成の「舞首」,陰惨な事件を扱いながらも,登場人物のキャラクタと「狸」という素材のため,どこかユーモア感が漂う「芝右衛門狸」の2編です。本格ミステリ色の強い「塩の長司」もよかったです。

 なお本シリーズは雑誌『怪』に掲載されており,いまでも連載中とのこと。続編が楽しみです(『怪』は「第零号」だけ買ったんですが,いまひとつピンと来なくて,その後は買わないようになってしまったんですよねぇ^^;;)。。

99/09/12読了

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