京極夏彦『嗤う伊右衛門』中央公論社 1997年

 江戸に逼塞する摂州浪人・境野伊右衛門のもとにもたらされた縁談話。相手は御先手組民谷家の岩。しかし岩は2年前疱瘡を患い,その顔は醜く爛れているという。そして民谷家の上役・伊東喜兵衛をめぐっては,なにかと胡乱な風聞が絶えず・・・。

 京極流『四谷怪談』です。といっても鶴屋南北のそれではなく,巻末の「関連文献」に挙げられている「於岩稲荷由来書上」などをもとにしているようです。また「怪談」を,幽霊を含む超自然的な存在による怪奇譚とするならば,これは怪談ではありません。しかし,それ以上に恐ろしく,そして哀しい物語です。人の心の闇は,怨霊以上に恐ろしく,哀しいのでしょう。

 伊右衛門,又市,按摩宅悦,直助,民谷岩,民谷又左右衛門,伊東喜兵衛・・・,物語は,各章ごとに,登場人物を追いながら,進んでいきます。その描写で,物語の時間的経過が語られるとともに,クライマックスへ向けての伏線が綿密に張られていきます。伊東喜兵衛を中心とした,又左右衛門,岩,直助らの確執と策謀は,さながら複雑に編み上げられた蜘蛛の巣の如き姿をしていますが,作者はそれを,けっして先を急ぐことなく,各登場人物の視点を通じて,丁寧に描き出していきます。
 そしてそれらがクライマックスにおいて交錯し,収束し,共鳴共振し,物語の“謎”の核心,すべての発端があきらかにされていきます。「御行の又市」の章の最終局面,伊右衛門のセリフは,その総仕上げ,という感じで「ぞくり」とします。描かれてはいませんが,なぜかこのシーンで,伊右衛門は凄絶な笑みを浮かべているような気がします。
 このような展開の巧みさは,一連の京極堂シリーズで培った,この作者の十八番と言えましょう。またそのクライマックスシーンは,血塗れ血みどろではありますが,派手な立ち回りの剣戟シーンというより,凄惨で重苦しくはありますが,一幅の絵を思わせるような“シン”とした静謐ささえ感じさせるものです。

 作者は各章で,各登場人物の心の動き,そして心の“ずれ”を描き出していきます。そしてその“ずれ”が,きしみ,ゆがみ,絡み合い,もつれ合いながら,最終的な破局へと展開していきます(その展開の仕方は,作者に対しては失礼かもしれませんが,スティーブン・キングの作風に近いものを感じました)。ですから,さまざまな怪異や不可思議は,このような心の“ずれ”の集積であり,“人の世”のうちで収束する点で,先にも書きましたように,この物語は怪談ではありません。
 作者がこれまで描いてきた京極堂シリーズでは,京極堂は,人外のものとしか思えぬ怪異を“人の世”の中に落ち着かせることで,“憑き物”を落とします。この京極流『四谷怪談』は,作者自身が,その京極堂の役割を担っているように思えます。つまり怨霊と怪異に彩られて巷間に伝わる『四谷怪談』を,“人の世”に落ち着かせることで,お岩の,伊右衛門の,そして『四谷怪談』という物語の“憑き物”を落としたのではないでしょうか?

 それにしてもこの作者,『絡新婦の理』でもそうでしたが,各章の終わりをページの最後に合わせたり,文章がページを越えて続くことを極力避けるなど,文章の配置による視覚的効果を狙ったような,ある種の形式美を求める傾向があるようですね。

97/06/29読了

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