池波正太郎『剣客商売 狂乱』新潮文庫 1992年

 前巻「徳どん,逃げろ」でメインをはった傘徳こと傘屋の徳次郎が,本巻「仁三郎の顔」で,またまた活躍します。
 かつて徳次郎とともに,四谷の弥七の密偵として働いていた佐平,いまでは娘夫婦の茶屋で悠々自適の隠居生活を送っている。傘徳のもとに,以前佐平が密告した盗賊・黒羽の仁三郎が江戸に舞い戻ってきたという情報がもたらされる。仁三郎は必ずや佐平を狙うに違いない。徳次郎はそのことを弥七や佐平に伝えようとして・・・というエピソード。
 佐平を狙う仁三郎,それを阻止しようとする徳次郎,それぞれの視点から描かれたストーリィは,緊迫感を持って展開していきます。さらにそこに秋山大治郎が絡んできます。佐平や徳次郎にとって仁三郎は凶悪な盗賊でありますが,大治郎にとっての彼は,旅先で知り合った気のいい人物です。“お江戸のダークサイド”を描いた『鬼平犯科帳』でもそうですが,この作者の描く「盗賊」たちは,主人公に対する単純な「敵役」「悪役」ではなく,それぞれにさまざまな「顔」を持つ,血肉ある人間として設定されています。そこらへんが話に深みを与えているように思います。またこのエピソードは,予想されるクライマックス―徳次郎や弥七,大治郎と仁三郎との対決―を描かないことによって,ラストに余韻をもたせているところもいいですね。

 ちょっと変わったテイストを持った作品に「狐雨」があります。
 杉本又太郎が,主家の息女と駆け落ちした。そのため主家の家臣に狙われることになるものの,彼の剣術の腕は,父親から「わしの跡を継ぐな」と言われた凡庸なもの。そんな彼が不可思議な経験し・・・というお話。
 池波作品は,このシリーズと『鬼平』くらいしか読んでいないのでよくわからないのですが,少なくともこの2シリーズの中で,この作品ほど「人外の怪異」をストレート描いた作品はめずらしいように思います。ただこちらも明確なエンディングを持ってこない点で,「仁三郎」と似ていますが,少々「尻切れトンボ」的な印象が強いですね。それとも,このキャラクタ,のちに再登場するのでしょうか?

 さて本巻のタイトルにもされている「狂乱」は,ひとりの剣客の悲劇を描いた,不気味でいながらもの悲しい作品です。
 石山甚一は凄腕の剣の腕を持ちながら,その陰気な性格と足軽という低い身分のため,十分な評価を与えられず忸怩たる思いにとらわれている。そんな彼に暖かい言葉をかける秋山小兵衛。しかし鬱屈した彼の思いが爆発するとき,小兵衛は彼に剣を向けねばならなくなる・・・
 世が世ならば,本編の主人公・石山にしても,それなりに活躍できる場があったのかもしれません。しかし戦乱から離れてすでに100年以上,世は泰平。武士に求められるのは,官僚としての手腕,サラリーマンとしての律儀さなのでしょう。「剣客」というのは,たしかに武士にとって「理念型」としては高く推賞されながらも,その一方で,泰平の世では身の置き場を見つけるのが実際には難しい,そんな不安定な存在なのでしょう。ですから,その狭間で,狂い,暴走していく石山の姿は,もしかすると秋山親子さえも,心の奥底のどこかに抱え込んでいるものなのかもしれません。

99/01/13読了

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