倉阪鬼一郎『百鬼譚の夜』出版芸術社 1997年

 この作者の作品は,井上雅彦監修『異形コレクション』シリーズのうち,『ラヴ・フリーク』に収録されている「老年」と,『変身』におさめられた「福助旅館」の,ふたつの短編を読んだだけです。どちらもなかなか楽しめた短編でしたが,ウェッブ上で本書が刊行されていることを知り,さっそく注文,読んでみました(その節は,金澤さん@書庫の彷徨人,ありがとうございました<私信)。

 さて作者みずからが「あとがき」にも書いていますが,「限りなく短編集に近い長編」です。主人公は,怪奇な題材を好んで取り上げるフリーライターの“私”と,その友人で怪奇小説マニアの黒川。彼らが出会うさまざまな怪異が「赤い羽根の記憶」「底無し沼」「黒い家」という3つのエピソードで語られます。
 「赤い羽根の記憶」は,“私”と黒川の行きつけの飲み屋「皿屋」で偶然知り合った奥思一郎医師から見せられた,ある患者の日記をめぐって物語が進行します。なぜ彼は「赤い羽根」を怖がるのか,その原因は幼い頃の失われた記憶にあり,と,ストーリィはサイコ・スリラー風に展開していきますが,ラストは怪談です。
 「底無し沼」では,黒川が古本市で買った,大正時代の無名の作家・妻沼宗吉の『底無し沼』をめぐる怪談です。謎の作家をめぐる因縁話の背後に,さらに妻沼という家系をめぐる,より深い因縁話が絡み,タイトル通り,底無し沼のごとく“私”を深みへ,深みへと誘います。妻沼宗吉もまた,はるかな過去からの亡霊の傀儡だったのかもしれません。
 「黒い家」は,幽霊屋敷ものです。天才詩人・風岡俊一が失踪し,“私”と黒川は,彼の日記を手がかりに,北関東にある廃屋「黒い家」へと出かけます。火事で焼け,そのまま放置されている家の壁の周囲を回っているうちに,気がつくと・・・,というシーンはオーソドックスながら,ぞくぞくする怖さがあります。また襖や障子がつぎつぎと勝手に開け放たれていき,大きな座敷が見渡せるというシーンの,怪奇映画的な映像性が不気味です。
 これらのエピソードは,いずれも正統派怪談とでもいいましょうか,きわめてオーソドックスなゴースト・ストーリィといえます。どこか古典的なイギリス怪奇小説を思わせるところがあります。そこらへんに物足りなさを感じるかどうかは,読者の好みにかなり左右されるところでしょうが,この作者のねっとりとした文章によってつづられたストーリィは,さまざまな素材と結びついた昨今の「ホラー」とは一線を画すテイストに仕上がっていて,独特の雰囲気を醸しだしています。

 さて,最後の「百鬼譚の夜」は,3つのエピソードに出てくる登場人物たちが「皿屋」に集まって,「百物語」を開くというエピソードです。さきの3つのエピソードに合わせて,いくつかの怪談が語られますが,しだいに会は不思議な雰囲気につつまれていきます。“私”以外の人々はなにやらたくらみを持っている様子。いったい彼らの目的は・・・,ということで,物語は異界的なエンディングを迎えます。
 たしかに伏線はいくつか引かれていますが,このエンディングは少々唐突な感じが否めません。また,それまでに語られた個々のエピソードと内容的に結びついているとはいえず,そこらへんも不満点として残ってしまいましたね。個々のエピソードはけっこうおもしろいので,短編集として読めば楽しめるのですが,長編としては少々中途半端な感じがします。「あとがき」によれば,本来,短編として書かれた作品を,長編として構成し直した作品だそうですので,今度は最初から長編として書かれた作品を読んでみたいものです。

 ところで,「百鬼譚の夜」の中で“私”は,ホラーや怪奇小説は,超自然的な要素を含んだものをいい,サイコ・サスペンスなどとは別だと言っていますが,この定義は,わたしが普段考えていることと同じなのがうれしいですね。ただ「ホラーが前向き,怪奇小説が後ろ向き」というは,いまいちピンと来ませんでしたが(^^;;;

98/03/15読了

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