貫井徳郎『慟哭』創元推理文庫 1999年

 この感想文は,ネタばれはしていませんが,先入観を持ちたくない方には,あまりお薦めできない内容になっていますので,ご注意ください。

 都下で発生する連続幼女誘拐事件。警視庁の努力もむなしく,捜査は暗礁に乗り上げてしまった。上司や部下,マスコミの反発と批判を前にして,若き捜査一課長・佐伯の苦悩は深まる。一方,胸に大きな「穴」を空けた「彼」は彷徨の末,ある新興宗教団体に身を投じる。そして次第に「彼」の心は狂気に蝕まれていき・・・

 ネタばれはもちろん論外としても,ミステリを読むときの「事前情報」というのは,諸刃の剣に似たところがあります。事前情報があるがゆえに,その作品をより楽しめる場合もあれば,逆に興を殺ぐようなマイナスに働いてしまう場合もあります。
 わたしにとっての本書の「事前情報」とは,ひとつはこの作品が「鮎川哲也賞最終候補作品」であるということであり,もうひとつは,文庫の「あらすじ」に書かれている「本格推理」という紹介,ならびにあの北村薫「“仰天”と驚愕させた」という惹句です。
 これらの事前情報が,今回の場合,わたしにはマイナスに働いてしまったようです。

 ストーリィは,ふたつの流れが描かれながら進行していきます。ひとつは警視庁捜査一課長・佐伯を中心とした流れです。連続幼女誘拐事件の解決のめどが立たず,また彼を取り巻く二重三重の血縁・姻戚関係が,庁内における彼の立場を微妙なものにし,佐伯は窮地に立たされます。また妻との不和,愛人との不倫関係の発覚は,彼にますますストレスを与えます。
 もうひとつの流れの主人公松本は,胸に空いた大きな「穴」を埋めるべく,新興宗教団体「百光の宇宙教団」に入会,そしてその教団の暗部に足を踏み入れた彼は,しだいに狂気に蝕まれていきます。

 物語は両者を交互に描きながら,さながら警察ミステリ的な展開を見せます。しかし,上に書いたような「事前情報」は,本書を読んでいるわたしに「このままで終わるはずがない」とささやき続けます。それゆえ,どうしても「ひねた眼」でストーリィを追い,その結果,いくつかの「仮説」が頭を去来します。そしてひとつの仮説を当てはめて読むと,ストーリィがまったく異なる「貌」を持ってくることに気づきます。ですからラストに明かされる「真相」は,それほど驚きをもたらすものにはなりませんでした。
 そういった意味で,個人的には心から楽しめたとは言えないのですが,それでもしかし,この作品は,きっちりと引かれた伏線と,それを埋め込んだ文章の巧みさ,そして絶妙な構成から成り立っており,デビュウ作とは思えぬほどの洗練さに驚かされます。
 この作者の作品は,『失踪症候群』『鬼流殺生祭』の2冊しか読んだことがありませんが,「鬼面人を驚かす」といった類を狙うものではなく,オーソドックスさと奇想とを,その筆力と構成力とで巧妙に混ぜ合わせた,「読ませる」作家さんなのだろうと思います。

98/05/02読了

go back to "Novel's Room"