ドン・ウィンズロウ『カリフォルニアの炎』角川文庫 2001年

 「火には火の言葉がある」(本書より)

 ジャック・ウェイドは,保険会社に勤めるベテランの火災査定人。怠慢な調査官により,失火による不慮の死とされた火災は,彼の綿密な調査によって,放火,そして殺人の疑いが濃厚になる。しかし,事件の背後にはロシア・マフィアが暗躍し,ジャックには,さまざま圧力と妨害が加えられ・・・

 ハードボイルド,ノワール,サスペンス,そしてミステリ・・・「ニール・ケアリー・シリーズ」とは一味違う,どちらかという『ボビーZの気怠く優雅な人生』でこの作者が見せたストーリィ・テリングを存分に発揮した佳品です。

 物語は,失火と断定された火災について,主人公ジャック・ウェイドが,独自の調査を開始するところから始まります。小さな,しかし明確な「方向性」を持った手がかりを,ひとつひとつ丁寧に積み重ねながら,火災が「事故」ではなく,放火と殺人であることが明らかになるプロセスは,まさに「プロフェッショナルの仕事」という感じで,読んでいてじつに心地よいものがあります。その途中途中に,ジャックの消防学校時代のエピソードを挿入することで,専門的な知識を上手にかみ砕いて説明しているところも,うまいですね。
 そして彼の「プロとしての誇り」は,調査中に彼に降りかかるさまざまな圧力・妨害に対するハードボイルドなスタンス−「俺は取引はしない」−へと繋がっていきます。キャラクタとシチュエーションとが矛盾なく,見事にマッチしています。

 しかし,じつはこの彼の「プロフェッショナルの仕事」が,物語の後半において,それまでとはまったく異なる「意味」を持ち,それがストーリィに急展開を与えるところは,ミステリ小説の作法に則ったものと言えましょう。さらにそののち,ジャックは絶体絶命,逃げ道なしという状況に追いつめられ,そこから彼がいかにして脱出するか,が,後半でのサスペンスを否が応でも盛り上げています。このあたり,先にも触れたように『ボビーZ』と同様の,タイト・ロープを渡るような,圧倒的な緊迫感に満ちあふれています。

 そしてもうひとつ,本作品で忘れてならないのは,ノワール小説としての色合いでしょう。ストーリィの前半から,ジャックと対峙するもうひとりのメイン・キャラクタ−ニッキー・ヴェイルがじっくりと描き出されています。それゆえ,「犯人は誰か」的な興味を最初から排除されていると言えます。しかし,このニッキー,もとKGBの工作員で,アフガニスタン侵攻時に辣腕を振るい,さらにロシア・マフィアに潜入,カリフォルニアのダーク・サイドでも頭角を現していくという悪党です。彼は,自らの成功のために,躊躇なく,邪魔者を陥れ,抹殺していきます。ロシア・マフィアの厳格な掟と相まって,その冷徹にのし上がっていくニッキーの姿は,まさにノワール小説の登場人物のそれと言えましょう。
 作者は,このニッキーを,ジャックの「敵役」という,単なる役割にとどめるのではなく,ジャックと対等の,この物語のもうひとつの「求心力」として造形しているように思います。

 ところで本書の訳者は東江一紀。いまやウィンズロウ作品の訳者として,しっかり定着,まさに「ゴールデン・コンビ」といった感じですね。それにしても,角川文庫の「訳者あとがき」で,創元推理文庫の「ニール・シリーズ」刊行の遅延に触れるというのは,なんとも「いい度胸」してますね(笑)

01/10/08読了

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