ドン・ウィンズロウ『ストリート・キッズ』創元推理文庫 1993年

 コロンビア大学院で英文学を専攻するニール・ケアリーは,財閥キタリッジ家の私設探偵社“朋友会”の有能な探偵という顔も持っている。そんな彼への今回の依頼は,上院議員の家出した娘を連れ帰ることだった。彼女が目撃されたロンドンへ飛ぶニール。そこで彼を待っていたものは・・・

 先日読んだ『ボビーZの気怠く優雅な人生』の軽快でスピーディな展開が楽しめたので,世評高い「ニール・ケアリー・シリーズ」の第1作である本書を手に取ってみました。翻訳者が同じせいでしょうか,『ボビーZ』と同様,読みやすい文体でサクサク読んでいけました。

 アメリカ上流階級からの依頼,隠れたスキャンダル,家出少女の捜索,比較的シンプルなプロット・・・ハードボイルド・ミステリのフォーマットを踏襲したような「マン・チェイス」ものです。にもかかわらず,本作品が,一般的なハードボイルド作品とは異なる感触を持っていることの理由のひとつは,なによりも,主人公ニール・ケアリーのキャラクタ造形でしょう。
 かれは,いわゆる「タフ・ガイ」ではありません。父親の顔も知らず,ヤク中で売春婦の母親,元ストリート・キッズのニールは,愛情に飢えたナイーヴな心の持ち主です。彼に探偵術をたたき込んだジョー・グレアム「お父さん」と呼んで,絶大な信頼を置き慕うのも,その現れと言えましょうし,彼の「売り」であるへらず口は,そんなナイーヴさ(それは探偵としてのウィーク・ポイントでもあります)を隠すため,守るための防壁ととれるかもしれません。
 ですから,この作品には,ハードボイルド作品とは異なる「せつなさ」「柔らかさ」,そして「不安定さ」を抱え込んでいると言えます。とくにニールの仕事が「潜入捜査」であることが,それに輪をかけています。なぜなら,
「どんな潜入捜査も,最後には同じ結末にたどり着く。裏切りという結末に」
だからです。
 家に帰りたくないターゲット―上院議員の娘アリー・チェイス―から信頼をえるために,ニールは嘘をつき,あざむき,偽りの愛を語ります。ただ,ロンドンからの逃亡先サイモンの別荘で,彼女と寝ないことが,彼にとってのぎりぎりの矜持だったと言えるかもしれません。
 さらに,両親の「裏切り」によりストリート・キッズとなったニールがまた,その「裏切り」の世界に身を置くことで生きて行かねばならないという設定も関わってきます。
「まったくこの世界には反吐が出る。しかし,この反吐の出るような仕事が終われば,この宇宙がいかに薄汚い穴蔵であるかについて,沈思黙考する時間はいくらでも作れるはずだ」
 ニールは18世紀の英文学の助教授を目指しています。それは「薄汚い穴蔵」である「世界」から逃れる方法なのでしょう。しかし,そのためにはキタリッジ財閥からの資金援助を受け,「反吐が出るような仕事」をしなければならない。
 そんな矛盾を抱え込んだニールの立場,その立場への彼自身の対し方―それもまた,この作品にせつなく,やるせないテイストを与えているように思います。

 ニール・ケアリーが,ひとりの探偵として,ひとりの“ストリート・キッズ”として,これからどのような事件に,人生に遭遇するのか,楽しみにさせるシリーズです。

98/08/14読了

go back to "Novel's Room"