泡坂妻夫『亜智一郎の恐慌』双葉社 1997年

 江戸城雲見櫓に常勤する雲見番番頭・亜智一郎。天下泰平な閑職に見えながら,その実,将軍直属の隠密機関。開国攘夷で世情揺れる幕末を舞台として,不可解な事件に智一郎の推理が冴える!

 この作者が創造した名探偵亜愛一郎の「ご先祖様」といわれている亜智一郎を主人公とした連作短編です。ただ,作中,智一郎と愛一郎との関係はいっさい触れられていません。ですから,両者の関係はいまだ「謎」なのであります。などというのも,まぁ,野暮というものでしょう。
 でも『狼狽』したり,『転倒』したり,『逃走』したりする子孫よりも,『恐慌』をきたしてしまうところは,大物なのでしょうか? それとも小心者なのでしょうか?

「雲見番拝命」
 安政の大地震で揺れる江戸城。いち早く地震の到来を察知し,巧みな「技」で将軍を守った男がいた…
 亜智一郎ならびに隠密方としての「雲見番」の初見参です。腕に覚えのある藻湖猛蔵や古山奈津之助はともかく,偶然から「剛の者」と誤解され,「雲見番」に組み入れられた緋熊重太郎を,メイン・キャラクタとして配したのは,「隠密同心」「影の軍団」とかいったノリを避けるためでしょうかね? トリックには,この作者の本業(?)である「紋章上絵師」としての顔がのぞいています。
「補陀楽往生」
 藩主による大量殺人があったと噂される白杉藩に潜入した智一郎と猛蔵。彼らはそこで「補陀楽往生」という奇妙な流行を眼にする…
 大量殺人,誰も手を触れることのない密室的状況での不可解な老人の死,城下に広まる奇怪な噂・・・一見無関係に見える事柄が,最後の最後でするすると結びついていくところは,まさにこの作者の独壇場でしょう。とくに「蝙蝠」の話は「なるほど!」と膝を打ちました。本作品集で一番楽しめたエピソードです。
「地震時計」
 重太郎の懇意にする花魁が謎の心中を遂げた! その頃,将軍には,地震を予知するという「地震時計」が献上され…
 これまた関係なさそうに見えたふたつの事件が結びつくという趣向です。またなかなか派手な演出も見られる楽しい作品です。ただラスト,“犯人”がすらすらと自供してしまうのは,ちょっと不自然な気もします。
「女形の胸」
 十三代将軍・家定危篤の事態に,後継者選びで揺れる江戸城。そんな折り,家定に御落胤がいることが判明し…
 この作品での,智一郎の奇妙というか,ひねくれた発想を読むと,「やっぱり,この人は,亜愛一郎のご先祖様だな」と納得できます。でもこんな「薬」,本当にあるのでしょうか?
「ばら印籠」
 十四代将軍家茂は,雲見番に写真を撮ってくれと言い出し…
 う〜む,たしかにこの時代,写真を撮るとするならば,これほどの苦労(と描写)が必要なのでしょうけど,メインの「謎」に至るまでが少々冗長な感じがします。内容的には,現代のスパイものを読むようで楽しめましたが・・・
「薩摩の尼僧」
 若い娘が立て続けに失踪,死体で発見される。現場では奇怪な尼僧が目撃されており…
 幕末に起きた有名な重大事件の「裏話」といったテイストの作品です。前の作品もそうですが,ミステリ色よりも,幕末の時代性みたいなものを描き出すところに重点が置かれているように思います。そういった意味でむしろ「時代物」的な色彩が強いです。
「大奥の曝首」
 公武合体のため和宮降嫁の前夜,大奥では怪異な噂が流布していた…
 智一郎と重太郎が,女装して大奥に忍び込むのというシチュエーションが楽しい作品です。メイン・トリックは途中でわかりますが,そのために引かれた伏線の妙が,やはりこの作者ならではのところがあります。

98/12/22読了

go back to "Novel's Room"