楠桂『鬼切丸』17巻 小学館 1999年

「鬼狩りの章」
 お隣の智加ねえちゃんが通り魔に殺されてから8年,“ぼく”はようやく犯人を見つけ出し,復讐を果たした。これは殺人じゃない。鬼狩りなんだ…
 人が,「人ならざるもの」,つまり「鬼」になる原因は,強く深い「想い」―恋情,憎悪,欲望,狂気などなど―である,というのが,この作品のコンセプトであるといえましょう。このエピソードにおける「想い」とは,ひとつには復讐心でありますが,主人公の少年にとっては「正義」でもあります。少年にとって「鬼を狩ること」は,“おねえちゃん”を殺した犯人を断罪する「正義」です。それゆえ彼は,自分もまた「鬼」であること,復讐心と正義という妄執に囚われ,変化してしまった鬼であることに気づきません。
 これまでのエピソードで,しばしば鬼は,鬼切丸によって切られるとき,涙を流します。鬼であることの苦悩,鬼になってしまったことの哀しみを断ち切るものとしての鬼切丸が,鬼であることを自覚していない鬼である少年に無力であることもまた,肯けるものがあります。
「鬼恋慕の章」
 憧れの岡田先生。“あたし”にはわかる。先生もまた“あたし”を愛してくれている。だから“あたし”のお腹の中には先生との子どもが宿ったのだ…
 この作者は,「少女の恋」に対して,ときおり冷酷とも言えそうな眼差しを向けるときがあります。片想い,思いこみ,誤解,妄想・・・それは「少女マンガ」が描き続けてきた世界にきわめて近しいものがあります。作者は,そんな「少女の恋」の背後に,表裏一体となって,しっかりと張り付いているブラック・ホールを,「鬼」という形象を通じて暴き出しているようにも思います。それは,この作者のコメディ・マンガが,しばしば「ラヴ・コメ」のパロディとして描かれることと通じるものがあるのかもしれません。
「起屍鬼の章」
 明治の中頃,紫吹男爵から,悪霊調伏を依頼されたふたりの僧侶は,男爵邸でひとりの鬼と出逢う。日本刀でもって鬼を切り伏せる,少年の姿をした純血の鬼と…
 さて久しぶりの「明治編」であります(12巻「怨鬼哀歌」以来ですかね)。このシリーズには,ときにミステリ・タッチの作品が見られます。つまり「鬼は何者か?」という謎が,ストーリィの中心に置かれる物語です。このエピソードでは,紫吹男爵を悩ます鬼は,彼の死んだ妻なのか? それとも・・・? という謎がメインに据えられ,その謎をめぐって,鬼切丸の少年とふたりの僧侶が戦いを繰り広げます。「鬼の正体」は伏線がきちんと引かれていて楽しめました。
 ところで,この作品において,名前を持たない「鬼切丸の少年」に,「英生」という名が,僧侶覚丹によって名づけられたことが明らかになります。かつて,名前を持たないがゆえに,鬼の呪いを避けることのできた彼に名前があることは,きわめて大きなリスクを負うことになります(14巻「悪路王の章」を参照してください)。覚丹の死によって,それは意味がなくなると少年は言いますが,後藤沙英と幻雄は,その名を知っています。はたしてこの設定が,今後の展開にどう影響を与えるのか,そこらへんが楽しみですね。

99/07/27

go back to "Comic's Room"