あさりよしとお『るくるく』1巻 講談社 2003年

 怠惰でギャンブル狂の父親と二人暮らしの鈴木六文。電気なしガスなしの貧乏なその家に,ある日,悪魔のお姫様が住み着くようになった。彼女の名前は“るく”。彼女のお守り役(らしい)“ブブ”,彼らにつきまとう天使の“ルー”が加わり,さらに親父は猫に変えられてしまって,六文の生活はしっちゃかめっちゃか。でもそれなりにやっていけるのかも?

 この作品を読んでいて,まず思ったのは,いろいろなマンガやアニメの古典的なフォーマットを取り入れているな,ということです。
 たとえばるくと,そのお守り役にしては性格が悪い(「悪魔だから」(笑))“ブブ”が,鈴木六文の家に突然住み着く,というオープニングは,『ドラえもん』に代表されるところの「異人の介入」モチーフですよね。宇宙人や未来人,あるいは妖怪物の怪の類が,主人公の日常生活に入ってきて,活性化する,つまり「お話が転がっていく」という,まさに古典中の古典とも言える設定であります。
 で,その「悪魔」という設定もまた,『魔法使いサリー』『魔女っ子メグちゃん』といった,いわゆる「魔女っ子もの」の伝統を引くものと言えましょう(“ブブ”が「案山子」のような姿をしているのも,『オズの魔法使い』のパロディでしょうか? で,この“ブブ”,どうやらかなり高位な悪魔のようですが,おそらく“ベルゼブブ”のことではないかと想像します)。
 そして「神と悪魔の反転」。るくやブブは,(地獄が満杯にならないようにという理由はあるとしても)この世で「善行」を施し,逆に,天使“ルー”のキャラは,むしろ狂信的なカルトの信者といった趣があります。また途中で顔を出す妖しげな和尚さんとなると,もっと危ない(祀っているご本尊が「人間には発音できない名前」というのには笑っちゃいました。ほとんどクトゥルフ神話ですね)。このモチーフの代表として,永井豪『デビルマン』石川賢『魔獣戦線』などが挙げられます。本編中の「天使だ,悪魔だ……なんて,しょせん呼び名に過ぎんだろ?」というセリフに,この作品のスタンスが語られています。

 さてそんなフォーマットを(おそらく意図的に)踏襲しながらも,描かれているのは,やはりこの作者の世界であります。誤解を恐れず思い切って言ってしまえば,それは「グロテスク」と「ほのぼの」との同居,です。「グロテスクさ」は「残酷さ」とも言い換えることもできます。
 たとえば冒頭,六文の父親は,じつにあっさりと殺されてしまいます。直接は描かれていないものの,かなり「惨殺」といった感じです(ここらへん,もしかすると編集部による規制が入っているような気もしますが…)。上にも書いたお坊さんによる供儀シーンなどにも通じます。るくもけっこう「怖い」ものを持っている気配です。
 またそういった描写だけではなく,ネタの発想にも同趣向が感じられます。たとえば,るくの「はじめてのお使い」というエピソードでのブブの態度や,プールで監視員をしているブブによる「行き過ぎた規則遵守」というギャグなどです。「聖地エルサレムの近所に住む同胞がくれた,神の力が宿るテレカ」というギャグも,けっこう危ないですし^^;;
 しかしその一方,「ほのぼの」テイストのエピソードも,各所に挿入されています。風邪をひいた六文への,るくの慣れていない親切や,商店街ではじめて「音楽」を聞いたるくが,それを身体で表現する場面などに現れています。さらにそんな彼女に,六文がピアニカを演奏してやるシーンで,六文は彼女との「間接キス」に頬を赤らめます。
 またお米を手に入れようと商店街のゲームに参加したるくが,六文に「三等の「ふりかけ」取れたら,ちょうどいいね」というセリフは,るくの健気さと心配りがよく現れていますね。
 こういった「グロテスクさ」と「ほのぼの」とは,上に書いたような「古典的な設定」が,それぞれに内包しているものと言えます。つまり「異人」や「悪魔」は,つねに常識やルールを破壊するパワー(「グロテスクさ」「残酷さ」)を持っていますし,またそんな異なるパワーとのコミュニケートすることによって,人間の良心や善性の再確認(「ほのぼの」)も,この手の作品でしばしば見られる手法です。作者は,それらを強調,肥大化させることともに,両者を同一地平で描くことで,ちょっと風変わりな手触りのギャグ的雰囲気を醸し出しているのではないでしょうか。

03/02/16

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