岩明均『ヘウレーカ』講談社 2002年

 「あんたらはすげえよ。でももっと……ほかにやる事ァないのか?」(本書よりダミッポスのセリフ)

 紀元前3世紀,地中海の覇権をめぐるローマとカルタゴの戦いは,シチリア島シロクサを舞台に繰り広げられる。シロクサを掌握したカルタゴ派のエピキュデス将軍は,海と陸から攻め入るローマ軍に対して,「アルキメデスの武器」を用いて抗戦,ローマ人を血祭りに上げていく。スパルタ人ダミッポスは,恋人クラウディアがローマ人であったことから,否応もなく,戦いに巻き込まれていく…

 『雪の峠・剣の舞』に続く,この作者の歴史ドラマ第2弾の舞台は古代地中海です。正直,このセレクトには,少々戸惑いましたが,この作者の画力は,壮大なスケールの舞台こそ似つかわしいのかもしれません。そう,その圧倒的なまでの画力が堪能できる作品と言えましょう。
 たとえば,次のようなシーンです。シラクサのローマ勢を排して,権力を握ったカルタゴ派のエピキュデス将軍は,多くの民衆を前にして演説します。「真の独立国になろう」「最も豊かで最も美しい国家が生まれる」と。雄壮で凛々しい言葉,熱狂する民衆…しかしページをめくると,将軍の背後に横たわる血まみれの死体を,作者は1ページ大で描き出しています。光と声援を浴びながら演説する将軍の背中と死体とのコントラストがじつに鮮やかなシーンであるとともに,たとえどんな美辞麗句が並べられても,「革命」とはつねに流血をともなう「戦い」であるという真実を,くっきりと1枚の「画」で表している卓抜なシーンでしょう。
 あるいはこんなシーン。ローマ人であるため将軍に捕らえられたクラウディア。彼女を救いに行ったダミッポスは,クラウディア解放の条件として,ローマ軍に損害を与えよと命じられます。鏡の反射光を集めてローマ戦艦を焼くという奇抜な方法で,その条件を満たした彼は,呆然とする将軍に対して,こう言います。
「どうかな? ローマ戦艦7隻に損害を与えたんだけど……」
 そのときのダミッポスの表情は,それまでの,どこかのほほんとした,ひ弱な感じとは違って,じつにしたたかでしぶとく見えます。彼の隠れた才気が顔をのぞかせる場面でしょう。それを作者は,煙を上げる戦艦をバックにして,彼に指で「7」という数字を作らせることで,見事に浮かび上がらせています。
 いずれのシーンも,この作者の画力のすばらしさを如実に表しています。

 ところでダミッポスは,このときに,その才気の一端を見せますが,それを積極的に活用しようとはしません。おそらくそれは,アルキメデスが作った「エウリュアロスの車輪」を,その目で見ているからでしょう。蒸気の力を利用して繰り出される投石は,ローマ軍を殲滅してしまいます。手足を失い,腹を穿たれたローマ兵士は,苦痛に顔をゆがめながら,倒れ伏していきます(その場面の悲惨さもまた,この作者の画力が存分に発揮されています)。
 ダミッポスは,「才気」が,そして「科学」が,軍事に利用されるときに産み出される悲劇を目の当たりにし,またそれに苦悩するアルキメデスの姿をも見ています。だからこそ,みずからの才気を,クラウディア救出には用いても,戦争という局面においては活用することを自らに戒めたのではないでしょうか。そして軍事大国へと登り詰めるローマ軍に対して,冒頭に引用したような言葉を投げつけたのだと思います。
 このダミッポスのスタンスは,『七夕の国』におけるナン丸を連想させます。ナン丸もまた,超能力を持ちながらも,むしろそれから一定の距離を置くことで「人間」であり続けようとしたキャラクタであり,おそらく彼の,平凡でありながらもバランスの取れたスタンスこそが『七夕の国』のメイン・テーマだったと思います。
 ダミッポスも,みずからの才気を自覚しながら,それを用いないことを選択した点で,共通しています。ダミッポスが,クラウディア救出の際に,エピキュデスに投げつける言葉が,そのことを端的に物語っているのでしょう。
 「(ローマ人であり,シラクサ育ちのクラウディアが)ローマと戦争になっちまったから,多少肩身の狭い思いは仕方ないだろう……でも!
 だからって,きのうまで仲良く話したり食事してた同士が,きょう,いきなり刃物を突きつけ合うなんてできるのか?!
 それを平気でやれる方が変だとは思わないのかよ!!」

 「超能力」というフィクショナルな設定を排し,歴史ドラマの中で同じモチーフを描くとき,作者の視点は,より明快に,かつより切実に現れているように思えます。

02/12/25

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