朝 礼 訓 辞
平成25年9月2日
去る8月30日付の南日本新聞に安城出身で89歳になられる川原アサ子さんという方の記事が掲載されていました。 「語り継ぐ戦争」というシリーズもののコラムで、川原さんが21歳の時、学童疎開の保護姉として付き添い、死ぬほどの体験をして種子島に帰り着いた記事です。 安城小の生徒3年生から6年生までの120名は先生3人と保護婦8人と一緒に伊佐郡菱刈町に疎開しました。 栄養失調や赤痢が流行り、児童一人が亡くなりました。 昭和20年4月に疎開に行き、8月15日には終戦になり、まもなく種子島に帰ることになります。トラックや汽車に乗せられ、鹿児島に辿り着き、鹿児島から漁船に乗せられ、種子島に向かいます。 出港して数時間が経った頃、突然、エンジンが止まり、波が高くなり、船に水が入ってきました。水を汲み出したり、毛布で帆を作ったりしましたが、どうにもならず、馬毛島がすぐそこに見えるのに、船は3晩4日、漂流しました。食べ物もなく、水もなく、餓死寸前でしたが、ちょうど2人の兵隊さん(復員軍人という)が乾パンと干した梅干しを持っていて、皆で少しずつ分け合って食べたそうです。 乗り合わせた二人の中の一人の兵隊は、近くを通りかかった船に助けを求めて海に飛び込みますが、その人が生きて助かったか、死んだのか分からないということでした。(敵前逃亡というような格好に思えます) 保護婦さんや子供達は死ぬ覚悟をして、ヒモで体を結び合い、とっておきの洋服に着替え、死ぬ時は皆一緒に死のうねと祈るような気持ちで手を握りあっている時、突然、強い風が吹き出し、枕崎の近くの白沢海岸というところに漂着したのです。(これを神風とでもいうのでしょうか) 上陸後、白沢集落の人たちが、公民館でおにぎりや漬け物、唐芋などのご馳走をして下さったそうですが、その時の味を今でも忘れない、白沢集落の人々への感謝も今も忘れないと述懐しておられました。 翌日は、昼頃、枕崎を出向し、夕方、西之表に帰り着きました。 それぞれの家族が馬車などで出迎えてくれ、何ヶ月ぶりにお父さん、お母さんに会えてうれしかったが、あの時の喜びは言葉では言い表せない。戦争はもうたくさんだと結んでおられます。 戦後、まもなく作者は分かりませんが、この時の状況を歌に詠んだ人があります。コピーして皆さんに配りますので、あとで、私の話を思い出しながら読んで下さい。きっと涙なしには読めません。 ところで、先日はせいざん病院で、とても不幸な出来事が起こりましたが、悔やんでも悔やみきれませんが、二度と起こらないように、これから皆さんと一緒に力を合わせて、頑張ってまいりましょう。 今月も、また残暑が続きますので、体に注意してめげずに働いて参りましょう。よろしくお願い申し上げます。 |
医療法人純青会 せいざん病院 理事長 田上 容正 |
「学童疎開の歌」 作者不詳 1,時しも昭和二十年 グラマン攻めくる種子島 頃は四月の頃 学童疎開の命下る 2,いとしき我が子を旅の空 出してやるのも勝つために 年ばのいかぬ幼子が 旅行く先は知らぬ土地 3,暗き夜中に船に乗せ 別れを惜しむ折柄に 又もや降り来る涙雨 誰か哀れに思うらん 4,やがて近づく爆音に 親は死すとも子は死ぬな 思いは通う菱刈に 先生、保護姉よ頼みます 5,頃は八月中の頃 戦い止めよの命下り 帰る準備に子供らは 思いはいつしか母の顔 6,思いで深き菱刈に 永にお世話になりました 僕らが大きくなったなら きっとお礼に参ります 7,嵐の中に別れつげ 汽車の中やら船の中 思うは我家のことばかり 今日帰るべし種子島 8,馬毛島沖合にかかる時 にわかに船は止まりけり 波はしだいに荒れて来る 浪せき立ちて流れゆく 9,機械修理に努めつつ 救いを遠くに求むれど 浪はしだいに高まりて 救いの船はまだ見えず 10,四日三晩のその間 食うや食わずの船人は 今は疲れて動きえず 船は次第に流れ行く 11,しのつく雨のそのかげで 神様どうぞ助けてと 祈る姿もいじらしや 船が動揺するたびに 12,リュックサックも母様に みやげの品も流れゆく ああ運命もこれまでと 心を決めるはかなさよ 13,その時保護姉の情にて 晴れ着に着かえし子供らが 父ちゃん母ちゃんさようなら 最後が近づく一時間 14,神の助けか吹く風が 白沢浜へと吹きよせぬ 死する命の学童が 情に生きる百余命 |