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 次の日の朝、高校の教室に着いたのは、いつも通り、8:40だった。朝のホームルームが終わる少し前だ。教室に入っていくと、いつも通り、頭が禿げて鶏ガラのように痩せ細った先生が、イヤな顔でぼくの顔を見る。ぼくは一瞥して自分の席につく。いちおう、これが朝一番のぼくのクラスメートに対する人気取りの行為だ。ホームルームが終わると短い掃除の時間がある。今週のぼくの班は、視聴覚室が割り当てられている。結局、毎朝、数人でバレーボールを使ってサッカーをやっている訳だが、今朝は備え付けのパソコンのディスプレイを2台壊して終わった。1時間目の授業は物理学、先生は無骨そうで怒ると怖いが、しばしば授業が教科書以外の話に脱線するので結構人気がある。今回は、授業中のほとんどの時間を使って、あるSF映画と相対性理論の矛盾について熱弁を振るっていた。2時間目は数学の授業、この先生は生徒の出席を取らない。授業中も黒板に向かって話し続け、生徒の方を見ることはほとんどない。ぼくはこの授業の始まる前に学校を抜け出して郵便局へ向かった。制服の内側に「日記帳」を忍ばせて...。
 昨夜は「日記帳」の内容を全く読まなかったし、今日も「日記帳」を拾ったことは誰にも話さなかった。なぜなら、ぼくがやろうとしている事は、無償の行為だからだ。「日記帳」の内容を読んだり、人に言ったりしたら、せっかくの崇高な気分がぶち壊しになってしまう。この事は、ぼくの心の中に一生留めておくのだ。
 郵便局には窓口が幾つもあった。一番手前の窓口の担当は、眼鏡で色白のヤセた男で、神経質そうに何かを書いている。どうにも感じが悪い。フロアの全体を見回してみると真ん中辺の窓口に、気のよさそうなオバサンが座っている。ぼくはそこまでスタスタと歩いていって、唐突に聞いた。
 「大きい封筒を1枚ください。」
オバサンは微笑みながら答えた。
 「郵便局では封筒は売ってませんよ。」
 「本を一冊送りたいんです。何かいい方法はないんですか?」
 「郵パックっていうのがあるけど...」
 そう言われて料金表を見せられた。専用の紙袋代は千円を超えていた。ここの近くにコンビニがあることを思い出したぼくは返答した。
 「わかりました。封筒を買ってきます。」
 コンビニで茶色いB4版の封筒10枚入り280円を手に取った。「日記帳」と封筒を手に、本のコーナーに行き、”お宝ギャング”を立ち読みした。アイドルSのスクープヌード写真が載っている。防犯カメラの死角に行き、店員の様子を窺ってから、その本を服の中に入れた。それから食品コーナーに行き、サンドイッチ1個と野菜ミックスジュースを取った。レジに行くと、パートのオバサンが、制服姿のぼくを見て、顔をしかめていた。郵便局へ歩きながらサンドイッチを食べ、ゴミは投げ捨てた。
 郵便局に着くと、買ってきた封筒を一枚取り出し、宛名を書くことにした、「日記帳」の一番最後のページを開き、丁寧に宛名を書いた。
 菜原市つつじヶ丘二丁目5−2
  岬 玲子 様
 郵便番号は判らなかったので書かなかった。郵便局の振り込み用紙を一枚取り、裏返して、こう書いた。

   はじめまして。つつじヶ丘の国道沿いにある本屋の公衆電話に置いてありました。  大切な物だと思いますので送ります。中身は読んでません。

 この紙を「日記帳」といっしょに同封する。
 さて、ここで悩みがある。昨夜からずっと悩んでいることだ。

 封筒に、ぼくの住所と名前を書くかどうか? 

ぼくは、純粋に、人知れず良い行いをやろうとしている。この「日記帳」の持ち主に喜んでもらいたいだけなのだ。だたそれだけだ。相手に見返りを求めるものではない。これこそが完璧なすばらしい行いなのだ。崇高な行為なのだ。そして、この行為は、僕の胸の中だけに閉まっておくことなのだ。しかし反面、「日記帳」の持ち主がどういう人なのか知ってみたいという気持ちがある。岬玲子。どういう人なのだろうか?ぼくと同じ高校生だろうか?もしかしたら同じ高校に通っているのかもしれない。けど、本当は、小学生や幼稚園児なのかもしれない。おばあさんなのかもしれない。岬玲子。変わった名前だ。ドラマに出てきそうな名前だ。そもそも、この辺りに岬ってゆう名字はない。都会から引っ越してきたんだろうか?そうだとしたら、大会社のキャリアウーマンなのかもしれない。それとも、恋人に捨てられ、心機一転、越してきたのかもしれない。着ている服も、おしゃれなんだろう。美人で、いつも綺麗にして...。
 彼女は、ぼくからの封筒を受け取って、何かお礼をしてくれるかもしれないのだ。まずは食事に誘われて、そこから恋が始まるのかもしれない...。まあ、それは大袈裟としても、手紙で返事くらいは来るだろう。彼女がどういう人なのかが判る。そして、自分の存在を、彼女の心の中に留めることが出来る。ただそれだけでもいいのだ。
 あれこれ考えたあげく、結局、封筒にぼくの住所と名前を書いてしまった。
 さっきのオバサンが座っている窓口に行き、封筒を出した。オバサンは愛想笑いを浮かべて、窓口は向こうだと指さした。ぼくは、あの眼鏡でヤセた男の窓口に行き、封筒を出した。男は、仕事を邪魔されたかの様に、ぼくの目をジッと睨んでから封筒を受け取った。男は、神経質そうに封筒を処理した。
 曇り空の下を、学校へ向かう。もう授業は4時間目のはずだ。昼休みに学校に戻れるように、少し遠回りをする。
 気持ちは複雑だった。岬玲子と、まだつながっているという安堵感と、すばらしい行為を台無しにしてしまった自責の念が入り交じっていた。結局、ぼくなんて、この程度の人間なのだ。昨夜だって、崇高な気分にひたりながらも、時折、岬玲子の名前と女優Hの顔がダブって、なかなか寝つけなかった。
 学校に忍び込み、教室へ戻ると、みんなは弁当を食べている最中だった。
 「急にいなくなって、どこ行ってたんだよ?」
 ぼくは答えた。
 「散歩、散歩。」
もっとましな言い訳が出来ないものか、我ながら情けなくなった。
 「ヤマシロがチェックしてたぞ。」
 ヤマシロとは、4時間目の化学の先生の名前だ。
 「それより、スクープ写真持ってきたぞ!」
 ぼくはそう言って服の中から”お宝ギャング”を出した。
 「何だよ、そういう事かよ。」
 ひとりがそう言い、皆、本に群がった。

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