円空 つれづれ 日記June,2004

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2004年6月2日火曜日

私的「その時歴史が動いた、ちょうど36年前の今日!

 1968年(S43)6月2日夜10時45分頃、福岡市箱崎の、とあるビルにそれは墜ちた。
私は大學正門前にあった友人OとSの下宿の2階で語り合っていた(この下宿は昔の赤線の家だと言われている、戦争前からの古めかしいが味のある木造の家だった。この家を訪れ、2階のOを呼ぶ時、木造の出窓から女郎さんが身を乗り出していたであろう姿を想像したものだった。大家の名前は森さんだったように記憶している)。21歳目前の、大学3年生だった。今でもその瞬間の事はよく覚えている。社会学科のOと西洋史のS(今や母校の教授になっている)と3人でエンリコ・マシアスの45回転のドーナツ盤の「思い出のソレンツァーラ」を聞きながら色んな話がシームレスに出ていたように思う。いつものことだった。

 夜10時過ぎ、ドーン、ドーンと地響きがする。小雨が降っていたので雷が落ちたのだと思った。しかし3分ほど経つと窓の外を駆ける下駄の音がする。「どうしたの」と問いかけると「九大が火事だ」と走ってる人が言う。見ると工学部の高い塔の先が赤く揺らいでいる。私たちもすぐに駆け出した。正門が閉じられているので2mほどの赤レンガの壁をよじ登る。私たちの在籍する文科系キャンパス方向だ。走る走る。と50周年記念講堂の先から白煙が昇っている。近づくと理学部の建設途中の建物が燃えている。足場がぐしゃぐしゃに壊れ、青白い炎が三階あたりから激しく上がり、ボア〜〜〜と青白い塊の炎が地面に叩きつける。工事のガスか燃料だろうか?すると「米軍ジェット機が落ちた」と叫ぶ声がする。炎の先にある松の木に赤白の布が見える。パラシュートに違いない。「爆弾が爆発するぞ」「逃げろ」と言う声で私たちは100mほど離れた航空工学科の黒塗りの建物の前に移動する。余談だが、この建物を黒く塗った理由は、太平洋戦争当時に米軍による爆撃をくらます為だったそうだ。皮肉にも23年経って米軍機が近くに墜ちるとは。
野次馬がはどんどん増える。もう理学部本館前は人の海だ。
「おい、Oよ、あと一秒か二秒遅かったら俺らは今頃あの世だな
着陸時だったと判断した。離陸なら我々の頭上を通ったはずだがその爆音は聞いていなかった。
「うん、死んでた。危機一髪だった。それにこいつが原爆を積んでなくて良かったな、爆発してたら日本は第3の原爆被災だ。俺たちは消滅だったな」
(実は至近距離に、実験用の放射性物質コバルト貯蔵所があったそうだ、それに墜ちていたら原爆同様の大事故だった)

 そのうち消防が到着して消火作業を始めた。誰かが叫ぶ「米兵が入ってきたぞ」。見ると記念講堂前に幌なしのジープに4名の米兵が乗っている。学生が行く手をさえぎる。板付基地(いたづけ:アメリカ空軍基地、朝鮮戦争当時の最前線基地。我々の在学中はファントムなどが2機編隊でタッチアンドゴーの訓練をする騒音でまともな講義は出来なかった。現福岡空港)から来たのだ。今燃えているジェット機は着陸に失敗したのだろう。「追い出さんとイカン」「ヤンキーを追い出せ」学生たちが口々に叫ぶ。誰かが絶叫する「ヤンキーゴーホーム!!」すると「Yankee,Go home!」の大合唱だ。私も興奮してつい叫ぶ。人波が大きく揺れる。押されてジープのそばまで来た。私と同じ歳だろうか、もっと若いかも、後列の米兵の顔が目の前だ。
「Yankee,Go home!」学生が興奮してジープを揺らす。
「Yankee,Go home!」米兵の顔が引きつる。
「Yankee,Go home!」彼の目が見開く。私と視線が合う。おびえていることが青い瞳の揺れるなかに見て取れる。
その瞬間、叫ぶのが恥ずかしくなった。彼は大勢の「Jap」の興奮した只中に住民裁判のごとく曝されて生命の危機を感じていたに違いない。彼の向こう側に私と同じ日本人の学生や市民が大勢取り囲んでいる。その口からは
「Yankee,Go home!」「帰れ、帰れ」が吐き出され若きGIを包み込む。
すると、いつも見ている学生運動のリーダーらしき男がジープのボンネットに上がる。

「いまア、あのオ〜、ベトナムでエ、殺戮を〜繰り返している〜〜戦闘機が〜〜この学問の府にい〜〜」と例の口調でアジテーションをする。
「アメリカ帝国主義の殺人兵器がこの九大に落ちた、一歩間違えれば箱崎のど真ん中に落ちて日本人民が殺されていたであろう。われわれは断固このジープを返すわけにはいかない。学生諸君、この兵隊を人質に米軍とアメリカ帝国主義に抗議しようではないか。そして来る70年安保を断固として粉砕しなければならない」と言うようなことをアジる。学生たちが歓声を上げる。私は今でも覚えているくらい冷静に聞いていた。そのアジを聞いて身の危険を感じる。武器は見えないが、このままだと米兵は銃を発砲するかもしれない。兵隊だから武器を持っているだろう。私は恥ずかしさや恐怖心でOに合図して人波を押し分けて一緒に脱出する。

 入れ違うように警官隊が駆けつける。「何で警官がキャンパス内にいるんだ」「そうだ」「とにかく官憲も米兵もこのまま出すな」と言う声が上がる。警官隊は10数名ほどだったが、警官が来ると多くの学生はジープから少し離れる。血気盛んな学生だけがジープを囲んでいる。警官がリーダーを引き摺り下ろす、もめる。学生が警官に詰め寄る。騒然となっている。その騒ぎを背に墜落現場に向かう。
 爆発しそうにないので、もっと近くにと火災現場の裏の木造2階の古ぼけた建物に登った。おそらく戦前の建物だろう。階段がきしむ。廊下には先客が数名いる。青白い火がさかんに階下に落ちるのが見える。誰かが、あれはジェット燃料の燃える色だと言うのが聞こえる。

「D、これは歴史だな」
「うん、歴史だ、あれがベトナム帰りだと火が点くぞ」
「朝鮮帰りだろう。プエブロ号拿捕があったから。それでなくても70年安保が近いから学生活動家には持って来いの材料だ」(プエブロ号とジェンキンス氏
「明日からキャンパスはうるさくなる」
「うん、三派が騒ぐ」(三派とは中核派、社青同解放派、社学同(02年亡くなった藤本敏夫がリーダー)の武闘派学生運動集団。詳しくはここ
「どうする、O」
「俺は三派に行く、Dお前は」
「俺は、エンタープライズの時と同じで民青(みんせい)だな」
 (アメリカ原子力空母エンタープライズ号寄港阻止闘争
「民青はつまらん、D、一緒に行こう」と私を「暴力」学生運動家と一緒のデモに誘う。
暴力は好かん、学友会(当時民青系執行部)でおとなしいデモにする」
私は一月に日本に初めて原子力空母が佐世保に寄港した時の反対運動と同じ行動を取るとOに告げた。Oは「そうか」とそれ以上誘わなかった。Oは三派系学生に親近感を持っていたが、文芸部に所属し、世間を斜めに見ていた私は政治のことはからきし苦手だったし、生来の暴力嫌いであった。

 この昭和43年1月、私は小説家志望のKと夜行列車で佐世保に行った。ただ、物書きの卵として事件の現場に居たかったから。でも怖くて社共5万人集会にもぐりこんだが、隅っこで異邦人と化していた。「小説家に政治はわからん」と文芸部の二人は抜けだし、「現場」へ向かった。しかし、平田橋に近づくと催涙弾の煙が流れてきて涙が止まらない、怖くなった。逃げてきたずぶ濡れの学生と一緒に駅へ向かった。そして「現場」もエンプラも見ることなく博多行きの列車に乗った

 下火になった建物の周りには多くの学生や市民が集まってきた。水が滴り落ちているが、まだそれでも時々火が燃えあがる。「あそこにほら翼が」という声。みると水蒸気の先に尾翼が見える。翼に薄く「ZZ]の文字が浮かぶ。大きさからしてジェット戦闘機だ。あとでわかったが、アメリカ軍沖縄嘉手納基地所属(ZZはその証拠)のRF4Cファントムジェット戦闘偵察機で、朝鮮半島か対馬海峡偵察からの帰りだったいう。爆弾を積んでいず、燃料が空に近かったから大惨事にならずに済んだという。パラシュートも見に行った。もう一つは講堂の近くにあった。新聞で知ったが操縦士二名は自力で歩いて守衛室まで来たという。米兵のジープの辺りは騒然としている。その騒動を横目に帰路についた。もう午前1時を回っていた。

 あくる日から博多の街は騒然となった。私は学長先頭のデモに参加したが、もどかしく、千代本町の交差点で、道の真ん中をフランスデモをしながら私たちの隊列を追い越して行ったべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の後を、文学部の学生十数人で追いかけていった。
 そして私はOに誘われて、10日後の6月11日深夜北九州市小倉区の山田弾薬庫への米軍弾薬搬入の列車阻止闘争の隊列に加わり、反戦青年委員会の若き労働者と共に蒸気機関車を10時間近く阻止した。この時に私の身に起こったことが新たな人生を歩ませることになる。その時歴史が動いた後編はまた後日、10月頃に。

この事件の詳しいことは、多分私と同じ頃学生だった「とりさんのほーむぺーじ」の「九大ファントム墜落事件」をご覧下さい。ほかにKBC九州朝日放送アーカイブ1968年の項に動画があります。ファントムシンポジウムには8年前の同窓会の模様が掲載されています。



追記(2004年9月)
 8月の米軍ヘリコプターの沖縄国際大学構内墜落で米軍はあっという間に機体を運び出した。しかも日本の警察は一指も触れさせることなく。
 九大のファントム機体は翌年の69年10月14日、九大闘争で機動隊が構内に導入されるまで米軍は1年半引き取れなかった。学生がバリケードを築いて自主管理していたのだ。反戦平和の象徴として。時代が違うとはいえ、今回の米軍、日本政府の対応は許せない。浜田幸一元自民党議員が言うように、日本は51番目のアメリカの州なのだろうか。いやそれ以下かもしれない。知事に会おうともしない小泉には怒りすら覚える。

 実は事故後一月余りたった夏休みに入った7月31日大学は機体引き降ろしと米軍引渡しを画策して工事を開始した。しかし、理学部の学生から異常を知らせる連絡が文学部自治会室の我々に届いた。(6月末に執行部を掌握した)直ちに現場に急行したった10名足らずで、数十名で作業していた工事か関係者に詰め寄り工事中止を迫った。作業員は怒った。「仕事の邪魔をするな」同じ若者のとび職は私たち学生にかなり際どい形ですごんできた。我々はたじろんだが引き下がるわけには行かない。地面に引かれた線を足で消した。責任者と思しき男が小屋から出てきた。「ワイら、なんばすっとか」「こん仕事は、邪魔せんでくれ」と言う。「機体は米軍に渡さない、工事はやめてくれ」と言う私たち。「それは知らん、俺たちは大学の指示で囲いを作れと言われている」と棟梁らしき男。問答の間にOkやUなどと杭を抜いていく。西日本新聞の記者が写真を撮る。新聞記者は事前に知っていたのだ。(この時の写真を見て父が鹿児島から私を引き戻しにやってきた)。とびの若者は棟梁に言われたのか現場から離れている。走ってきた大学本部の職員に執行委員長のOhが「貴様ら米軍に渡す気か!」と大声で迫る。「いや違う、電算機センターの建設に邪魔だから、機体を下ろすだけだ」と弁明する。政府や文部省から九大に機体返還の圧力があるという報道はあっていた。押し問答数十分の後、とにかく工事を中止させると全学の活動家に集まるように連絡をとった。
 この後夏休み中、機体をめぐる大学と通称「反代々木系」学生九大四者共闘の三つ巴の戦いが、建設資材で作ったバリケードをはさんで、説得、対話、小競り合い、某セクトの暴力事件を含めて続くのであった。この8月は暑かった。とにかく暑かった。帰郷していた私も月末にはバリケードに入った。そうそうソ連のチェコスロバキア侵攻があったっけ。(プラハの春
九州大学資料室1968年(昭和43年)の6月以降を参照)
 


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