円空 つれづれ 日記 Mar.,2004


2004年3月24日水曜日

 奄美での宿泊は、The 14th MOON というペンションをあっせんしてもらったが、ここがとにかく素敵なところだった。笠利町の奄美空港と田中一村美術館のある奄美パークの中間にある。東側の窓の50m先は海で、その遥か彼方に喜界島が浮かんでいる。一晩中潮騒が聞こえたがうるさいというほどではなくて、黒糖焼酎を傾けていると心地よくていつの間にか夢の中に入っていた。2階建ての木造ロッジを独り占め、朝は小鳥のさえずりで目が覚めた。ルリカケス(=天然記念物、国内希少野生動植物種、日本版レッドリスト絶滅危惧2類)の泣き声だったかどうかを主人に聞きそびれた。
 田中一村という画家の生き様はすごい。南日本新聞社の中野惇夫記者が奄美支社勤務中に執筆した「アダンの画帖田中一村伝」改め「日本のゴーギャン 田中一村伝 小学館文庫」600円を読んでいるが、中央画壇に背を向けて、かつ「売るためには描かない」「自分を納得させる絵を描くために奄美に来た」画家だ。生きているうちはほとんど評価されなかったが、死後評価が高まったひとだ。是非奄美大島を訪れたら、田中一村の絵を見てほしい。奄美での絵は引き込まれる。私は第3展示室でその筆、色に足が動かなかった。会館と同時に入ったので他の観客の声が一切なく、一村と相対峙して身震いをかんじた。
 蛇足ながら、中野惇夫氏は現在定年退職し、有機農家として鹿児島の田舎で奥様と合鴨農法で米や野菜を栽培されている。彼が編集部時代に連載した「新しい食と農のかたち」には私も登場する。また、この連載は本にもなっている。「有機農産物再発見ー新しい食と農のかたち」(家の光協会)を一読ください。中野さんとはこの4月に一緒にミャンマーへ小学校完成の落成式に同行することになっている。

 また、農家の方が金作原(きんさくばる)の原生林に連れて行ってもらいました。延々とつづく山道の奥にそれはありました。ヒカゲヘゴです。映画ゴジラの撮影にも使われた秘境です。
ヒカゲヘゴ=ヘゴ科=ヘゴ属Cyathea lepifera
 熱帯地域原産の多年草。高さ10m程度になる。乾燥した茎は着生植物の土台として用いられる。


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2004年3月23日火曜日


 プロペラの下に見えるのは、鹿児島県大隈半島にある海上自衛隊鹿屋航空隊の滑走路。(民間機は飛ばない、もと海軍特攻機地跡)
 エプロンで降機後撮影したYS11機、プロペラの大きさが分かるでしょう。

 有機農業協会の件で笠利町の農家を訪問するために鹿児島空港からJAC日本エアーコミューターのYS11型機に乗った。YS11は今から40年程前に完成した戦後唯一の民間旅客機である。私はこのアナログの飛行機が大好きだ。今回もMD-8というジェット便があったが、わざわざ往復ともYS11にした。
 詳細はJACのホームページを見て戴くとして、同型機は定員64名のターボプロップ機だ。正直言ってうるさい。期待が小さい上にでっかいプロペラが風を切る音がするので機内のどの席でもうるさくて、アテンダントの機内放送がほとんど聞こえない。ジェット機は後ろに噴射するので主翼より前はうるさくないが、プロペラ機は前もうるさい。この機は特に窓側の前から5列目まではプロペラがすぐ横にあるからなおさらだ。さらに、振動もすごい。鹿児島空港から奄美空港まで1時間20分風切り音と振動が身体を支配する。加えてこの日は雲が多くて視界は一面の白である。まるで2月に行った青森の雪原を思い出させる。音と振動と白い視界にいつしか眠りに落ちていた。心地よい夢を見ていたと思う。何を見ていたかは思い出さないが、着陸前のかすかな機内放送に目覚めた時すこぶる爽快だった。
「あーいい気持ちだった」
という感じが身体全体を支配していた。久しぶりの爽快感だった。
 満席のこの便には背広姿のサラリーマンや公務員が多い。ジェット便に比べて片道3000円安いのもあるのかな、と想像した。女性客が2名居たがその方は黒のスーツ姿だったから仕事がらみの客だったに違いない。私のようにリュックを担いだ客は他に1名だった。3月末の移動時期の平日観光客は少ないのだろう。
 YS11はいつまで日本の空を飛ぶのだろう。この人間くさい、ジェット機にはないアナログ感覚の飛行機は貴重だ。YS11の半分の30人ほど乗せるサーブ機がJACにはある(SAAB、スウェーデン)。以前鹿児島福岡間で一回だけ搭乗したが、あまりに小さくてかえって不安になった。サーブ機はジェット機に慣れた身にはあまりにも左右にふらふらするので酔うようで、気持ちが悪いし、急旋回をするので肝を冷やす。それに比べるとYS11型機はまだ安定している方だと思う。
 皆さんにも一度はこのYS11に搭乗されることをお勧めしたい。ジャンボ機やエアバスの静かな機内とは異なった、風切り音と振動を伴った臨場感ある飛行機の旅が出来るはずだ。


2004年3月11日木曜日

 
というわけでmy roomを恥ずかしながら全世界に初公開。一番右の机は父が近くの大工に作らせた机で、私が中学生になった時に、家の山の樟(くす)の木を伐らせて板にして作った、45年前のものだ。手作りの品は45年経っても頑丈だ、薄い合板などを使用していないので重いが、大事に使っている。kの机のようにパソコンも長持ちしてほしいものだ!
 左下はこれも古いりんご箱。といっても10年前かな、今はりんごも箱ダンボールになってしまった。
 りんご箱の上に載っているのはスキャナEPSON GT-9300、何でもスキャンして保存。その下、ちゃぶ台に載っているのはマッキントッシュのiBookだ。macOS Xはソフトが合わないのでインストールしていない。古いOS9.2のままで使っている。私にとってマックは手放せない。いくらウインドウズに慣れてもマックが可愛い。Macのは高くて新機種には手が出ないでいる。
 上のデスクトップはSONY VIO WindowsMEで、しょっちゅうフリーズしまくっている。スキャナ活用とデータバックアップ、ノートが壊れた時のピンチヒッターに使用。このVIOはCD-ROMとCD-Rが2台別でコピーが手早く出来、とても便利です。その右、古い机に載っているのが現在活躍中の、東芝dynabook 522CMEです。ノートにしてはでかくて外出には適さないけど、家の中を動き回っています。yahooの無線LANカードをつけて、春の陽光をあびて縁側にちゃぶ台を持ち出してHP更新をしています。
 プリンターは2台。EPSONの古い名機PM-2000CはA3まで印刷可能で貴重な存在です。元の仕事仲間から4年前5000円で買ったけど現役です。コストも安いです。もう一台がHewlett Packardの970Cxiで音が静かで仕上がりはきれい。だがインクが高価。長持ちはするけど。
 デジカメはCanonのPowerShotG2。バックアップは、外付けの80GBのHD230MBのMOを使用している。ibookのバックアップは128MBのコンパクトフラッシュメモリーにコピーしている。若干面倒だが、大きなものはハードディスクを繋いでバックアップしている。
 インターネットにはYahooBBモデムにルータをつけて3台同時にアクセスできるようにした。
 SOHOの名前は「文書工房テルミー(仮称)にした。
Tell me = 教えて!!と、般若心経の一節「照見五蘊皆空」から付けた。照見=観音菩薩は人間の煩悩を全てお見通しされているという意味。
 (追伸:翌12日、急遽知人から電話があり、「遊んでいるなら、俺の会社の手伝いをしてくれ」という。早めに退社してよいという条件で私はあっさりと受諾した。4月1日付けで某ソフトウエア開発企業の役員に就いた、したがってSOHOは休眠状態となってしまった。)
 ボランティアします NGOや趣味のHPなどを開設したい個人の方は、ご連絡下さい。HP作成の基本をお教えします。 ただし 車で夕刻訪問できる近くの方のみ


2004年3月9日火曜日

 いよいよ今日からは自由の身だ。明日からの仕事がまったくない。仕事がない、することがないというのは一年ぶりだが、なんとも寂しい。一年前は数日後にミャンマーへ行く計画だったから、未知の国へ行くためにいろいろと準備であたふたとしていた気がする。それに引き換えて今日からはまったく何をすることも予定にない。あるといえば、4月中旬にミャンマーを三たび訪れるのことと、5月からの田植え準備作業だけだ。
 通常休日は9時ごろまでは寝ているのだが、今日は8時には朝飯を済ませた。SOHOの起業に向けての準備に部屋の模様替えをした。デスクトップPC,ノートPCそれにマックのiBookを3台並べてパソコンでの起業準備を整えた。マックとウィンドウズのファイル共有が出来ていないが、どちらもルータを通じてインターネットには出て行けるようになった。おまけにノートPCは無線LANで家のどこからでもネットにアクセスできる便利さにした。
 これであとは仕事を獲得してくる営業活動の準備だ。



2004年3月5日 金曜日

 今日は川内職業訓練短期大学校(通称ポリテクカレッジせんだい)の最後の学習の日だった。ちょうど4ヶ月前の11月5日に入所してから早いもので春の声を聞く日になった。3階の窓から見ると白梅の花は散り始め、紅梅が今盛りの畑が見える。

 春といえば私には忘れなれない記憶がある。20年前に俳句を習い始めた頃に作ったものを今でも覚えている。
    一人居の窓を桜に開ける日々
というのがある。単身赴任(?)していた時に読んだ句だ。なぜか、窓の外の花を見ているとこの句が記憶の底から浮かび上がってきた。
    面会の妻としきょうは春衣(はるごろも)
久しぶりに会いに来てくれた妻の姿に、男だけの灰色の社会に暮らしている身には、女性のそれも色鮮やかな服装はまぶしく思えたものだった。むろん妻に会える喜びもあったが。

 3月になったとはいえ今朝は殊の外冷えて郡境の峠を越えてくると樋脇町の田んぼは真っ白に霜が降りていた。三寒四温の言葉どおり週初めの20度近い陽光の春の日から、一挙に真冬に逆戻りしている。南国鹿児島と言えども、内陸部は結構寒いのだ。
 


2004年3月4日木曜日

 今日は鹿児島市内で雇用開発協会主催の「求人マッチング」という集団面接があるというので、会場のホテルに出かけた。販売や営業の求人企業ではなくて、目的は進学予備校だった。非常勤の口がありそうなので食い扶持のために働く可能性がないかを聞きたかったからだ。
 福岡に本社のある某チェーン教室の面接担当者は、私が席に座るや否や
「うちは、若い人を求めています。」
と言う。おいおい、来たか、ハローワークの窓口でも言われた言葉だ。
「年齢不問と書いてありますけど、この会社は三十代の人をと希望されてたようです」と以前窓口の女性に言われて「なら、年齢を書け!!」「ハローワークが年齢制限を助長するのか」と抗議したいきさつがあった。
「じゃ、経験豊富な人は無理ですか?大学で教えていたけど」と私。
「うちは中学生相手ですから、教室の責任者は40代前半まで、講師は鹿児島大学生を予定しています」と返事。
「非常勤でもいいんだけど」
「仕事が夜ですから」と来た。
「あんたは歳だから勤まらないよ」という表情がありありと顔に浮かぶ。
「夜型人間だから大丈夫です」と切り替えして、「人生経験豊富なほうが役立つこともあるけどね」と捨て台詞を残して席をたった。
 あと一社も似たようなものだった。
 待合の席に座っていると新聞記者が質問してきたから言ってやった。
「年齢不問と求人票に書いてあるのに若い人を、と言われた」と。不満をぶつけたのが良かったのか、翌朝の新聞に匿名で発言内容が載っていた。
 新卒の高校生の就職率が70%内外と言われる昨今、高齢者の再就職は至難の技だ。
 ここは、半年間ぐらいかけて起業の道を選ぶとしよう。文書作成ソフト「WORD」と表計算ソフト「Excwl」(ともに、マイクロソフト社製)の資格をとったし、ホームページ製作の経験があるし、両方を生かせればSOHO(SmallOffice,HomeOffice)で気ままにやれるかもしれない。


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