円空 つれづれ 日記May,2004

04年3月 


2004年5月31日土曜日

バス通勤・・・毎日偉人参り?

 私は今バス通勤をしている。山間の自宅からバス停までは約1kmを晴れた日は自転車で走る。雨模様の日は3つ先のバス停の近くにある農協系スーパーの駐車場まで車で走って乗り込む。勤め先が鹿児島市中心部の西鹿児島駅(今は鹿児島中央駅となっている)前で駐車場がない。40年ぶりのバス通勤である。降りるバス停はなんと40年前高校に通学していた時と同じバス停「加治屋町」である。

 ここ加治屋町は明治維新で活躍した多くの薩摩藩下級武士の生まれたところだ。私が1年間通った校舎(鶴丸高校、2年生になる時移転)がある現在の鹿児島中央高校の敷地内には「東郷平八郎」の生誕記念碑があった。今は道路から見られるように、校舎を囲む壁が一部切られて小さな石碑がある。たしか、私が通っている頃は大きな石の記念碑だったと思うのだが。構内にはまだあるのかもしれない。東郷さん、日露戦争での日本海海戦勝利の指揮振りはあまりにも有名な方だ。

 その道路向かいには同じく軍人の「大山巌」の生誕記念碑がある。日露戦争当時の満州軍司令官だったという。西郷の従兄弟だ。会社へ行く為に角を曲がって50m行くとあの「西郷隆盛」生誕記念公園がある。銅像は別の場所だ。西郷遺跡は市内にたくさんある。ここもその一つだ。民家4軒が建つ位の敷地の真ん中に大きな石が置いてある。
 そして、会社へは回り道だが、この100m北に「大久保利通」が育った家の跡がある。大きな石碑があり、脇の銘板石には「東郷平八郎、西郷従道(隆盛弟)、大山巌」など多くの有名人で共建したと書いてある。「大久保利通」は鹿児島ではいまいち人気がなく銅像もなかったが、かわいそうに思ったのか近年になって甲突川(こうつきがわ:私の家の近くが源流)河畔、高見橋のたもとに銅像が建てられている。たまには一つ前の千石馬場バス停で降りたときにはこの銅像の前を通る。

 この二人の記念碑の間に「維新ふるさと館」がある。地元の私は前を通るばかりで入館したことが無い。この建物の脇を通って私は甲突川を渡り会社へ向かう。たまにバスが早く着いた時は「せごどん」(西郷ドン)の石碑前に立ち、深呼吸し太っ腹の気をもらって元気に出勤していく。徒歩15分である。帰りには大久保ドンの石に触って英知の気をもらって帰路に着く。車ばっかりだった生活からバス通勤、徒歩も良いものだ、2ヶ月が過ぎた。

各偉人の詳細はWEB KohboさんのHPをご覧下さい。


2004年5月8日土曜日

母の日を前に

 5月の連休も最後になった。私の連休中は、田んぼの草刈とトラクターでの田起こしと文書工房テルミーの最後の仕事の屋久島の民話の復刻本の入力で明け暮れた。そして、特別養護老人ホームに入所している母にも1日から5日まで毎日会いに行った。

 これが逆効果というか、寂しがらせることになった。6、7日の出勤日に面会に行けなかったら7日の夕方施設から電話で「会いに来ないが、何かあったのでは??、と心配されています」と告げられた。それで、夕方田んぼの整理をしていたが慌てて面会に行った。「明日来る予定だったが、、、」と私が言うと「来なくなったから、心配した」と涙声で言う母。私もほろりとする。半身麻痺が無ければ家に居られるのだけど。「我慢してね、なるべく会いに来るから」そう告げて同室の方が就寝しているのを気にしながら退室した。

 以前まだ自力でどうにかトイレに行けたころは家にいたが、残業で帰りが遅くなると泣いていた。それでホームに入れたのだけど寂しいのだろう。体が動かないから尚更。それに寮母さんや介護員に頼み事をするのをとても遠慮する。83歳になるから、「他人に迷惑を掛けない」という道徳観が染み込んでいるためだと思う。だからぎりぎりまで要求を我慢している様子だ。

 と言って家に連れて帰るとホームに行きたがる。平成15年正月に妹の帰省に合わせて3日間自宅に連れて帰ったが、二番目の夜「お前たちはこのままオレをここに置くのか。もうホームには帰れないのか。ひどい、早く連れて行け」という。なだめすかしたが「何で連れて行かんのか」と夜の間同室に寝ている妹を起こして寝させなかった。それで一日早くホームに帰したことがあった。

 わがままと言えばそれまでだが、そのわがままに応えてやるのが子供の務めだと思っている。私が大学時代に学生運動にのめり込み母に迷惑や心配をかけたことを思えば、面会に行くことは苦労などではない。
 


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