蒼の回廊 -3-


 教室はいつもの様に騒々しい朝を迎えていた。
「これ誰の席?」
「余ってるんじゃないのぉ。榊さーん、学級委員でしょ。なんとかしてよ。」
 いかにも邪魔くさそうな声で女子が笙子を呼んだ。広げた本の上から不機嫌な顔をあげると笙子は、無言で立ち上がった。
「なんで二つも余ってるんだか…」
 朋美が「手伝うよ。」と寄ってきた。
 いつもと同じ朝――。


「いつもと同じ朝」を見下ろしている二人がいた。
「本当にいいの、」
 そう言った司の背中には真青な翼がある。
「うん…本当は少し淋しい。でもね、今はつかさくんの青い翼のほうが気になる。天使の翼って白いと思ってた。」
 諷子に翼の色を指摘された時、司の顔が哀しく歪んだように見えた。しかしそれは一瞬のことで、もう涼しげなやわらかい笑みをたゆたえている。
「これ、外してみて。」
 司が諷子の胸にかかっている青い石を手にとった。
「どこまでも澄んだ青…僕にはもう、届かない青。」
 司が石を天界の光に透かした。石は全ての邪気を降り払うような青く清らかな冷光を放っている。諷子は司の真意をはかりかねていた。
「HAPPY BIRTHDAY OTO これからも守り続けるよ。この指環に誓って。」
 司の指で銀の鎖から解かれ、指にはめられる青い輝石を、諷子は夢にまどろむ瞳で眺めていた。その満たされた幸福な空間を、ふいに破った者がいた。
「おや、遂に天界に来たんですか。これでフィーシルの苦労も水泡に帰すというわけ…手にしているのは『嘆きのかけら』ではないですか、それでは青翼の天使は近付けませんね――私もフィーシルも。ということは、フィーシルはお嬢さんをここに置くつもりはないのですね。」
 声の主にはやはり青翼があり、非友好的視線が諷子にまとわりついた。フィーシルとは司のことらしい。
「どうせなら私が迎えに行った時、素直に来ればよかったのですよ。フィーシルの翼が青いのはあなたのせいですよ。ね、フィーシル。」
「やめろっラトニス。」
「…どういうこと…」

 諷子の全身から不安がにじみ出す。司が大声をあげるなどただごとではない。ラトニスは嗜虐的な笑みで応じた。
「フィーシルが死を告げる天使だってことですよ――私と同じにね。その証拠に翼が青い。白い翼は誕生を告げる天使さ。フィーシルはあなたを『死』から守るために、毎回別の人間を天に召している――美しい恋物語だ。」
 じわじわと諷子ののど元を締めしめつけるように、ラトニスは言葉を吐き出していく。諷子は恐ろしさに耳をふさぐのも忘れ、立ちつくしていた。
「最初の犠牲者は誰だと思います?ふふっ、よくお聞きなさい。フィーシル自身ですよ。あなたを追いかける私に泣いて頼んだのです。『連れていかないで』とね。当然、代用の『魂』が必要になりますから私は彼の魂を受け取ったのです。予定外の『死』ですよ――もちろん彼の承諾を得てね。どうです、フィーシルの手は血で染まっているのですよ、そう穢れているのですよ――あなたの命もね。」
 司はラトニスにつかみかかろうとした。しかしそれよりも速く、ラトニスははばたいていた。高らかな笑い声と空虚な空間を取り残して…。
「ずっと一緒よ…ね…永遠…」
 諷子の声が涙をおびてくる。これは悪い夢…そう思いたかった。
「ごめん…やっぱりここに、諷を連れてくるべきじゃなかった。君の清らかさに僕の青い翼は釣り合えない…でも、これだけは信じて。いつも幸せ願うよ、永遠に君を愛するために祈るよ。ね、諷。これ以上、罪を重ねるわけにはいかないから…ごめんね。」
 司は頬にいくすじもの涙を伝わせながら震える声を抑え、諷子を抱きしめた。


 秋史が諷子の手元をじっとみつめた。
「なあ、その指環するのやめろよ。男にもらったんだろ、どうせ。新しいの買ってやるから。」
 諷子は首を横に振った。
「これ、お守りなの。誰がくれたのか忘れたけど…外しちゃいけない気がするの。」
「ちぇっ。まあいいや、出るぞ。」
 秋史に手を差し出されて諷子は立ち上がった。
「あ、雪……。」
 吐息の白く凍る寒空に雪が舞っている。
「お前の誕生日、祝ってるみたいだな…おい、なんで泣くんだよっ。」
 狼狽する秋史の姿を諷子の瞳は映してはいなかった。諷子はなぜ涙が流れるのかわからないまま、ただ静かに空を仰いでいた。
「ゆきが…あおい…の…」


 青翼の天使が、降り積もる純白の雪に身を委ねて倒れていた――着衣の胸を深紅で染めあげて。
 自らの血で罪を浄化し、愛しい者の生命を満たす祈りに、一点のためらいもないことを、鈍くきらめく刃で胸を深々と貫いている彼の指は証明した。そして、その端麗な顔には安らぎと哀しみと交錯しているかのようだった。
「神…よ、願わく…ば我が…命…最あ…いの者に…ささ…げん――――」


  《了》

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