蒼の回廊 -2-


 四日間、欠席していた諷子には学校が妙に懐かしく思えた。
「おはよ。森海君ね、トマトジュース受け取ったよ。」
 笙子の言葉が意味することを悟ったとき、諷子の表情に明るさが戻ったようだった。
 嘘は言ってないよね――笙子と朋美は目配せをした。
「そう。きっと同性同名っていうわけね。」
「多分ね。でも諷子もどうかしているよ、『つかさくん』は死んでるんでしょ。」
 諷子の顔が強ばった。
「笙子!何も古い傷持ち出すことないじゃにっ。」
「朋美は黙ってなよ。死んだはずの人間を『現れた』なんて、どうして思ったわけ?初恋の夢か幻を見たいわけでもないだろ?」
「つかさくんは確かに死んでるわ。」
 答えた諷子の声は静かだった。
「家が火事に遭って焼死したの。私はつかさくんに会わせてもらえなかった。遺体がむごすぎるからって…」
「ああ、だからつかさくんの死が信じられなかったんだね。」
 朋美が相づちをうった。
「そうかもしれない…でもね、もう一つ気にかかることがあるのよ。私が小さかったから記憶違いか思い込みだと思ってたんだけど…」
 笙子と朋美の二人は身を乗り出した。
「火事のあった時間に、私、つかさくんといたの。」
「えっっ!!」
「つかさくんね、『ずっと一緒だよ。』ってこれをくれたの。」
 諷子が取り出したのは青く澄んだ指環状の輝石を銀の鎖に通したものだった。
「ねえ笙子、やっぱりあのこと言ったほうがいいんじゃない。」
「そう、みたいね…諷子、森海君はジュースを受け取ったことは受け取ったんだけどね、一口も飲まなかったみたいなんだ。」


 息が苦しい。次第に足がもつれてくる。
 逃げなきゃ。あれが来る。
 何かにおびえるように走り続ける少女の前に黒い影が立ちはだかり、少女は逃げようとして腕を強くつかまれた。
「痛いっ。」
「くくっ。もうじき、それすら感じなくなるさ。お前は死ぬんだからな。」
「いやーっ。助けてっっ。」
「叫んでも泣いても無駄だ。そら、下をごらん。お前の命がどんどん薄れていくぞ。」
 少女は足元にもう一人の自分を見た。生気の失せゆく自分を…。


「嶋村さん、これ運ぶの手伝ってくれない?」
 声は森海司のものだった。
「あ・は、はい。」
 諷子は慌てて答えた。
「もう、ここに慣れた?」
「だいぶね。まだ名前も覚えてない人もいるけど。」
 その割りには話したこともない私の名前は知ってたね。その思いを諷子は口に出さなかった。
「昔ね、幼なじみにも シンカイ ツカサ っていう男の子がいたの。」
「へーえ。それで。」
「それでって…ねえ、私のフルネーム知ってる?」
「いいや。」
 司の応答はそっけない。
「じゃあ小さい頃、諷子っていう子と遊んだ憶えは。」
「悪いけど、嶋村さん、」
相変わらずのやわらかい笑顔…ポーカーフェイスともとれる表情で司は続けた。
「その森海司が君の幼なじみだか初恋だかは知らないけど僕は、『諷子さん』の思い出ごっこにつきあうつもりはないね。」
 絶望感と気持ちを見抜かれたような後味の悪い感覚が諷子に覆いかぶさった。無意識のうちに諷子はその場から逃げ出していた。
「諷…。しかたないんだ、僕らはもう―――」
 後に残された司は一刻前とはうって変わり、瞳に哀しみとも絶望ともつかない色をたたえて、諷子の後ろ姿に見入っていた。


「諷子、森海君やっぱり、あんたのこと知ってるよ。」
「どういうこと。」
「昨日ね、うっかり森海君に諷子と笙子見なかったかって聞いちゃったんだ。そしたら嶋村さんなら音楽室にいたよって。ね、私は『諷子』って言ったんだよ。」
 朋美が半ば嬉しそうに報告した。
「それ、いつのこと?三時間目より前?」
 三時間目の後、司は諷子の名を知らないと言ったはずだった。
「んーと、一限目の休みだったかな。」
 一時間目――森海君はなぜ嘘をついたか。なんのために嘘をついたか。ぼんやりと考えながら諷子は昇降口の横道を歩いていた。その時、
「嶋村さんっ!!」
 少し離れた所を歩いていた女子の一人が叫んだ。諷子が怪訝そうに振り向こうとしたのと、ガシャーンと派手な音をたてたガラスが、諷子の頭上に降ってきたのと同時だった。
「諷っ。」
 そう叫んで、短い悲鳴をあげて固く目を閉じた女子を押しのけ、諷子を抱きかかえるようにに走りよった男子がいた。
 諷子にはその声が司のもののように思えたが、それも一瞬のことで頭をしたたかぶつけて気を失ってしまった。


 息が苦しい。足がもつれる。
 逃げなきゃ。あれが来る。

「諷子、諷子、」
 呼ばれる声に諷子は目をさました。ぼんやりと霞のかかった視界と神経に映ったのは、自宅のクリーム色の壁だった。
「ああ、気がついたわね。大丈夫よ。軽い脳震盪らしいから。」
 脳震盪か…どおりで頭がずきずきするわけだ。諷子の母親はしみじみと安堵のため息をついた。
「あなたが心臓悪かった頃は、よくこんな思いをしたものだったけど…無事でよかったわ。」
「心臓?」
 見に覚えのないことを言われた諷子は、頭の痛みも忘れて聞き返した。
「あら忘れたの。今じゃすっかりよくなったけど、ある時なんか心臓が止まっちゃって大変だったんだから。」
「それ…いつのこと。」
 諷子の声はかすかに震えていた。「お前は死ぬんだ。」という夢の中の声を思い浮べてしまったのだ。繰り返し見続けた夢――追いかけてくるあれは死神の影だったのか。
「そう、ねえ。確か五、六歳の時で…その日にご近所で火事があったのを憶えてるけど…」」
 火事!何か全ての符号が見えてきそうだった。
「お母さん、その家に私と同じ歳の…」
「それより、あなたをかばった子の容態がかなり悪いらしいわ。」
 諷子の顔から血の気がひいた。
「行かなきゃ…」
「何言ってるの!」
 放心したように立ち上がろうとした諷子を母親が必死に止めた。


「嶋む…諷、来てしまったんだね。」
 面会許可の下りた司の病室に花束を持った諷子がたずんでいた。
「『つかさくん』…でしょ?」
 司は答えずに目をつむった。しかし、諷子を「おと」と呼ぶ声は諷子の知っている「つかさ」のものだった。
「――僕はね、一度死んでるんだ。火事でね。その時天使が――いるんだよ実際に。一つだけ望みを叶えてやると言ったのさ。」
 諷子は不思議と静かな気持ちでいられた。
「それであの時、私のところへ来てくれたの?」
「お別れを言いにね。僕は天使になりたかったから…あの青い石、まだ持ってる?」
 諷子が取り出すとそれはしゃらしゃらと音をたてた。
「なんて綺麗なんだろ。諷、僕はもうすぐ天に帰らなきゃいけない。」
 司は青い石をみつめたまま言った。
「嫌っ。離れたくない。…そうだ、私も天使になる。ね、そしたら一緒になれるよ。」
 君なら真っ白な翼が似合うだろう。と司は心のなかで呟いた。
「駄目だよ。死ぬ予定のない者が天界に入ると地上からその『存在』すら消えてしまうんだ。それに…天使にだって寿命はあるんだよ。」
「それでもいい。そばに少しでも長くいたいの。ね、いいよね。でなきゃ何故、私の前に現れたの!?このまま『さよなら』なんて悲しすぎるよ…残酷だよ…」
 諷子はまだ気付いていなかった、司は天使にも寿命があると言い、そして天界に一度入ってしまったものが地上の者に姿を見せられるのは永遠の眠りのために「別れ」を告げる時だけであるということを――。
「雪が…」
 司がふいに呟いた。病室の窓から雪が降り始めたのが見えたのだ。
「きれい。」
「あの頃の僕たちみたいだね、何も知らなくて純白で…でも地面に落ちたら泥水だけどね。そうだ、諷の誕生日がくるね。何かリクエストは?」
 諷子は窓の外を眺めながら、少し間をおいて答えた。
「天使は雪、降らせることできる?」
「いいよ。毎年だってプレゼントするよ。」
「それは、ずっとそばにいていいってこと?」
 司はただにっこりと笑った――あの頃と同じに。


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