蒼の回廊 -1-

 
「ずっと一緒だよ。ずうっと僕が守ってあげるからね。僕
のこと忘れないで。」
 少年は淋しい表情でそういうと、少女の手のひらに真青に澄んだ石をのせた。
「きれい。」
 少女は無邪気に喜び、二人は暖かい光の中で屈託のない笑みをかわした。


「心平らかに祈られよ。神は罪を浄化し給い汝に安らぎの翼をお与えくださるだろう。さあ共に…」
「今度は何教?」
「清光教だってさ。なあにが『安らぎの翼』よ、『キカジュエ』よ。」
 笙子がむげもなく言った。どうやら既に朋美の「ありがたいお話」を聞かされたらしい。
「あ、笙子。キカジュエ様を馬鹿にしたわね。おお、神よ愚かにして無知なる友を許し給え。」
 はあ。笙子と諷子のため息が重なった。
「それよりかね、転入生が来るらしいよ。時期外れって困るんだよね…」
 学級委員長の笙子が再びため息をついた。
「その人、美男子?」
 朋美が急に目を輝かせて尋ねた。諷子があきれ顔をするのと同時に笙子が皮肉った。

「キカジュエさまはそーいうことをお教え下さるわけね。
まだ男か女かなんて言ってないでしょ。」

 朋美が負けずに何か言おうとしたが、担任がその転入生を連れて入って来たので笙子の号令にかき消されてしまった。
「起立、礼っ。」
 がたがたっと椅子を引く音がした後、教室全体に好奇心に満ちた視線とひそひそ話とが飛び交った。転入生は朋美の期待どおり、男子であった。しかも、かなり秀麗な顔立ちの――諷子はその横顔を凝視していた。
「まさか…つ・か・さ・くん…」
 諷子の呟きに重ねるように、転入生は自己紹介した。
「宮下高から来ました、森海 司です。どうぞよろしく」
 拍手の響く中で諷子は蒼ざめていた。


「ねぇ、小さい頃のアルバムは?」
「二階の押入だけど。今頃どうしたの。」
「ん、ちょっとね。」
 ありったけのアルバムを引っぱり出すと、諷子は片端から「つかさ」を探した。
 ――確か四歳くらいの時はまだいたはず。「諷子〜幼稚園にて〜」と書かれたアルバムを広げ、「つきぐみ」の名表を指で追う。
「うえた、えのもと、きのした、さかぐち、しろやま、たのうえ…あれ。『つきぐみ』じゃなかったっけ。」
 残りの「ゆきぐみ」と「ほしぐみ」も調べたが司の名は見当らなかった。


「ふーん。じゃあ諷子が言ってた初恋の君は森海君なわけ?」
 諷子はこくりと首でうなずいた。笙子、諷子、朋美の三人は、中庭の芝生に思い思いの昼ごはんを広げている。
「諷子、やったね。これはもう運命の再会よ。ずっと一緒だって誓ったんでしょ。ああ、やはり神はおられるのよっ。」
「まあ待ちなよ。そんなチビ同士の約束あてになんないよ。第一、むこうは――森海君は諷子のこと憶えてるの?」
 朋美の楽観的予測はあっさりと笙子にかわされた。
「はっきり言って自信ないの。写真も探してみたけど一枚もなかったし。」
 諷子はトマトをつつきながら答えた。
「…それにお母さんも、そんな子知らないって…」
「諷子の勘違いじゃないの。本当に森海君が『つかさくん』なの?」
 それは、断言できると諷子は思った。
「女の子が初恋の相手、間違うはずないじゃん。ここは委員長さまにまかせなさい、森海君を試してみる。」
「でも突然『諷子のこと知ってる?』なんて聞くの?」
「うーん。そうだな…なんか『つかさくん』の特徴は?」
 一瞬、視線を注に遊ばせた後、諷子が言った。
「確か、トマトジュースが嫌い。」


 息が苦しい。次第に足がもつれてくる。
 逃げなきゃ。あれが来る。
 少女は再び走りだした。何かにおびえるように。
 場面が一転して少女は泣き叫んだ。
「いやーっ。ずっと一緒って言ったものっ。」
「ね、諷子。しかたないんだよ。」
 ――諷子はふいに目を醒ました。時計の針は七時を指し
ている。
 また、あの夢だった。しばらく見なかったのに。
 諷子はのろのろと制服のネクタイを結んだ。
 そう…あれは五、六歳の時の夢…つかさくんが死んだ時の――シンダ?誰が。ツカサ――確かに司くんは死んだ…はずよね。じゃあ、あれは誰?
 冷汗が全身から吹き出る。動悸が止まらない。
 森海司。あなた誰?――息が、できな…苦しいよ…
 諷子の体がろうそくがとけるように床へ崩れた。


 体育の授業の後、トマトジュースをはさんで二人の女子が話していた。
「諷子いないけど、どうする?これ。」
 笙子はトマトジュースをこづいた。
「神は人々に、勇気と英断あれ。とおっしゃってます。」
「キカジュエのことなんか聞いてないよ。なんかひっかかるけと…ま、いいか。諷子がいなくてよかったかもしれない。」
 朋美がまた宗教狂いの発言をしようとしたので笙子は思い切って立ち上がった。
「あたって砕けろ、だ。森海君っ。」
 急に呼ばれた司は、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにやわらかい笑顔をつくった。
「えっと…学級委員長のさか…」
「『榊 笙子』よ。これ、余っちゃってるんだけど飲まない?」
 笙子と朋美は司を凝視した。
「まだ封は切ってないんだけど。」
「ありがとう、もらうよ。のど渇いてたんだ。」
 司はジュースを受け取ると席に戻った。それはあっさりすぎるほどの動作だった。
「なあんだ。」
 がっかりした声を出したのは朋美だった。
「やっぱり違ったんだ。なんか気ぃ抜けちゃった。」
 ほっとした気になるのはなぜだろう。何かが違う。笙子はその「何か」をつかめずに苛立たしさをおぼえた。
「朋美、諷子の『つかさくん』の話憶えてる?」
「そりゃだいたいは…忘却は罪です。しかし人は忘れることなしに生きられない。神の心に祈られよ、神は汝を光のもとへお導き…」
「今は朋美の『説教』を聞いてるんじゃないの。まず、物心ついた時にはもう、つかさくは側にいたって諷子は言ったよね。」
「う…ん。それで毎日、一緒に遊んでてとっても楽しかたって。」
 不機嫌ながらも、しぶしぶ朋美は論点を戻した。
「で、ずっと一緒って約束して、その後は?」
「そのあとお?後ってそれが諷子の初恋で、ずっと会ってなくって、それでもって『今も好き』で終わりじゃなかった?」
「『会ってない』だったけ。」
 笙子を「何か」のもどかしさがとらえる。
「――もしかしたら、うーん『会えなくなった』だったかな…そうだ!諷子は『会えなくなった』って――」
何の気なしにそう言って、朋美は言葉を飲み込んだ。二人は朋美の言葉で、ほぼ同時に思い出していた。
『もう会えないの。つかさくんね、死んじゃったの。』
 そう言って淋しそうに笑った諷子を――そして矛盾した行為と知りながら、視線を司に移した。
 そこには、手のつけられていないトマトジュースが置かれていた。


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